説教音声・要旨 2025年7月27日(日)

  • 日時:2025年07月27日(日)
  • 聖書箇所:第一コリント6章1~7節
  • 説教題:愛に生きる教会の力

暗唱聖句

わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

マタイの福音書16章19節

説教音声

説教要旨

御使いをもさばくことのできる教会の権威

 コリントの教会に起こっていた問題の中でも、兄弟姉妹の間にもめ事が起るという問題は、深刻な影響を教会に与えます。
 教会に問題が起こるということは、教会が生きて前進している証拠でもあります。生きているからこそ病気にもなるのです。大切なことはその問題をどのように解決しようとしたがだと思います。コリントの教会においては、その問題を「聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人」(1)がいました。すなわち、教会の問題を、信仰者でない人たち、この世の裁判官に訴え出た人がいたということです。パウロはそれが問題であるといいました。
 もちろん刑法や様々な法律に違反する人を、この世の司法権に訴えずに教会でさばきなさい、などといっているのではありません。パウロが問題にしているのは、教会の権威、です。教会は、「世界をさばく」(2)ものであり、「御使いたち」(3)をもさばくほどの権威を持っているとパウロは語りました。
 教会は生と死の解決をいただいています。生と死の解決をいただいているのが教会であると信じているならば、兄弟姉妹の間のもめ事を解決する権威を持っていると考えるのは当然のことです。
 教会はこの世をさばく存在なのです。教会が裁判官になってこの世を批判しさばくというのではありません。そもそもイエスさまを信じ、イエスさまを大切に歩もうとすれば、その歩みやその存在自体が、この世をさばくものとなっているのではないかと思います。日曜日の朝にこうして礼拝にやってくる。それ自体、この世の人から見れば不思議なことかもしれません。倫理道徳的にさまざまな意見が自由に交わされる世界にあって、神さまの聖さに歩もうとするキリスト者の存在は、地域社会に対してひとつのさばきとなっています。神さまは、そのような権威を教会に与えておられるのだと思います。
 教会の問題を、教会の外の人、この世の人たちに訴え出るのは、その行為自体教会の権威を認めていないこと、教会が聖徒の集まりであることを見失っていること、キリストの十字架のことばの力を認めていないことなのです。

教会の権威は、愛と赦しにおいて発揮される

「どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか」(7)。

 ここに教会の権威とは何かということが、鮮やかに描き出されている、とある先生は言われました。「不正な行いを甘んじて受ける」「だまし取られるままでいる」、それが教会の権威がいかなるものかを知っている教会のやり方である、自分の正しさを知りながらも、不義を受ける。相手の悪いことを知りながらあえてだまし取られる。それこそ、教会の権威である、権威ある教会の姿である、というのです。
 「訴えているということ自体がすでに敗北なのです」(7)。
 まことの勝利とは、不正な行いを甘んじて受ける、自分が不義とされることを甘んじて受ける。正しさが自分のほうにあることを知りながらあえて奪い取られるままにされる。それがまことの勝利者である。神さまに義とされたことを知っている者の信仰的態度である、というのです。
 キリスト者は、キリストの十字架と復活のみわざによって罪赦され、永遠のいのちに生きる者とされました。神さまによって義とされたのです。神さまによって義とされたことを堅く信じている者は、自らがこの世から不義とされることも、奪い取られるままになることも甘んじて受け入れる、それほどまでに相手を愛するのだと思います。イエスさまはそのように歩まれました。
 山上の説教の中(マタイ6章)でイエスさまは「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(39)、「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい」(40)、「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」(41)、「求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません(42)、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44)と語られました。教会の権威を知っている者は、このような道に生きるようにと招かれています。そこにこそまことの平安があり、十字架のことばの力に生きる道があるのだと思います。

祝福を世界にもたらす教会の権威

 かつてヤコブと子どもたちは、世界大の飢饉の中、エジプトに逃れてきました。そのときエジプトはヨセフの働きの中、繁栄の中にありました。ヤコブは、ヨセフのとりなしの中、エジプトの王ファラオに謁見が許されます。その時の様子が創世記47章に記されています。
 「ヤコブはファラオを祝福した」(7)。
 驚くべきことにヤコブがファラオを祝福するのです。祝福はヤコブを通してファラオに、神の国イスラエルを通して、そして今日新しい神の国である教会を通して世界にもたらされるのです。

祈り

 教会に権威をお授けくださった父なる神さま。あなたから与えられたこの権威をあまりにも小さく、あまりにも過少に評価してしまう罪を赦してください。この世界に祝福を与えるために、あえて私たち小さな取るに足りない者を選ばれたあなたの愛と恵みを忘れることなく、まことの祝福を語る者として世界に遣わしてください。あなたの十字架のことばの力を見失うことなく、その圧倒的な愛の力に生かして、遣わしてください。

説教20250727-01
説教20250727-02


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