- 日時:2025年07月13日(日)
- 聖書箇所:コリント人への手紙第一5章9~13節
- 説教題:教会のまことの成長
●暗唱聖句
教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
エペソ人への手紙1章23節
●説教要旨
◎教会の成長とは、教会が聖さを保ち続けることである
この世は神さまが造られたものであって、もともとは聖いところでした。しかし罪が入って以来、汚れ、不道徳があります。キリストによって救われ聖くされた者が集う教会は、その不道徳とどのように付き合うのか。パウロは、教会の外部の人たちと内部の人たちとを分けて、外部の人たちのことは神さまがおさばきになる、教会は内部の人たちをさばかなければならない、と語りました。
パウロは不道徳の内容を、1節で「淫らな行い」と言いましたが、10,11節では「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」(11)と、その内容を広げています。そのような行いをする者とは付き合ってはならない、一緒に食事をしてもいけないとパウロは語ります。
「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい」。これは、旧約聖書申命記からの引用です。エジプトから贖い出されたイスラエルの民が、新しく生きていくために教えられた律法の規定で、神の民が神の民としての聖さを保っていくための言葉です(申命記13・5、17・7ほか)。この厳しい言葉を引用して、パウロは教会の聖さを保つようにと勧めました。
教会の交わりは、愛の交わりです。しかしその愛とは、聖さを保つということにおいて、はっきりとしたけじめを持っています。
教会は暗闇の世を照らす光です。暗闇の大海原を船が安全に航行するために灯台は確かな光を灯し続けなければなりません。もしその灯台が誤った光を灯すならば、たちまち航路は混乱し、多くの死傷者を出します。教会は地の塩です。塩気をなくしてしまったならば、何をもって塩気をつけるのか。もはや何の役にも立たなくなるのではないか。常に腐敗に傾く塩気のない世にあって、確かな塩気を保ち続けることは、教会の使命なのです。
教会が建て上げられるとは、聖さにおいて建て上げられることです。
◎神の赦しに与っている者は聖めの道に歩むことを喜びとする
貪欲な者(強欲な者)、人をそしる者(人を悪く言う者、人を罵る者)までとも付き合ってはいけない、食事をしてもいけない、と言われると、もはや誰も教会に集うことが出来なくなってしまうのではないかと思います。私たちは大なり小なり、貪欲です。また人を悪く言ったことなど一度もないと胸を張って言うことのできる者はだれもいないのではないでしょうか。
「悪い者を取り除きなさい」、というこの厳しい言葉は、教会を打ち壊すことが目的ではなく、教会が聖さのうちに成長することが目的です。
罪とは何か。犯罪はもちろん罪ですが、心の中で犯す罪も聖書は罪であるといいます。聖書に語られている罪という言葉は本来「的外れ」という意味だと言われます。神さまという的を外してしまっている(偶像を拝む者)。隣人という的を外してしまっている(貪欲な者、人をそしる者、奪い取る者)。そして自分自身という的を外している(淫らな者、酒におぼれる者)。的を外しているということは、健やかに愛せていない、ということです。人間はすべてこのような罪の中にあるのです。これらは相互にからまり、私たちの人生を、人間関係を、そして社会を破滅に向かわせます。罪の中にある、ということは、誰よりもその罪を犯している者自身が不幸の中にあります。
救われるということは、このような罪から解放されるということです。解放されるということを、罪が赦される、と聖書は語ります。それは赦されるということであって、許される、許可される、容認されるということではありません。
罪の奴隷から私たちを解放する力は私たち自身にはありません。ただ御子イエス・キリストの十字架と復活の御業によって私たちは罪から解放されるのです。私たちの罪は、神のいのちをもってしかあがなうことのできないほど深く大きなものでした。しかし神さまはそうまでして私たちを救いたいと願われました。この神の義と愛が一つとなって現れた主の十字架と復活を信じることによって私たちは救われるのです。
この救いに与った者は、自らが罪の中に生き続けているということに我慢が出来なくなります。イエスさまへの愛が、自らを聖くするのです。聖霊なる神さまは、私たちが聖めの道を歩むようにと励まし助け、導いてくださいます。
○御言葉に与る~悔い改めるところに赦しと慰めの言葉が語られる
宗教改革者ルターは、宗教改革の大きな一歩となる『95カ条の論題』(1517年)においてその論題の1として「わたしたちの主であるイエス・キリストが、『悔い改めよ』と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」と書いています。悔い改めるところに慰めは語られます。義と認められた私たちは日々謙遜に悔い改める自由をいただいています。
○聖餐の恵みに与る~キリストのいのちに生かされる
み言葉の語られるところに行われる聖餐において、パンはキリストのからだであり、ぶどう汁はキリストの血です。その聖餐においてキリストのからだに与り、神の子に造り替えられていきます。
教会はキリストのからだであり、キリストが満ちておられるところです(エペソ1・23)。私たちは、毎週の礼拝において、神さまからの愛の語りかけを聞き、悔い改めをし、慰めをいただき、聖餐のパンとぶどう汁とを頂きキリストのからだに満たされていきます。そうして聖い者と造り替えられていくのです。遅々とした歩みかもしれません。しかし救われた者は着実に聖めの道を歩んでいます。
●祈り
聖さを保たせてください。日々、あなたの御言葉に養われ、悔改め、慰めの言葉を聞かせて下さい。光として、また塩としてこの世界に遣わしてください。