詩篇42編の詩人は神さまを慕い求めてあえいでいます。具体的な事情は分かりませんが、詩人は神さまの御前に出ることができない状態にあったようです。
詩人は、エルサレムから遠く離れた地で、「おまえの神はどこにいるのか」とそしられながら、うなだれています。しかし、うなだれているだけではありません。神さまを必死に求めています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」です。詩人にとって、神さまの御前に出ることは生きるか死ぬかの問題だったのです。詩人は神さまなしには生きることのできない人でした。
詩篇42編の詩人だけではありません。私たちは誰もが神さまなしには生きることができない者です。神さまに造られた私たちは、神さまなしに生きることができないのです。罪によって、そのことが分からなくなっているだけです。逆に言えば、神さまなしには生きることができない事実すらも分からなくさせるところに、罪の恐ろしさがあるのです。
詩人は必死に神さまを求めました。神さまの愛を知っていたからです。神さまこそが「私のいのち」であることを知っていたからです。
神さまは私たちを愛していてくださいます。誰よりも神さまご自身が私たち一人ひとりを捜していてくださいます。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」、詩人が神さまを求める自分の姿を例えたその言葉は、私たちを捜していてくださる神さまご自身のようにも思えます。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。(ルカの福音書19章10節)