主日礼拝説教:2025年7月6日(日)
聖書箇所:出エジプト記12章15~20節
説教題:種なしパンの祭り
●暗唱聖句
新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
第一コリント5章7節
●説教要旨
あなたがたは種なしパンなのです
過越の祭りと重なるようなかたちで、種なしパンの祭りが行われます。
イスラエルの民は、神さまの御手によってエジプトの地から導き出される時に、急いで過越の食事をしました。その時に、過越の子羊とともに食べたのが種なしパンでした。その種なしパンを食べる種なしパンの祭りは、自分たちをエジプトの地から導き出してくださった神さまの救いの恵みを記念することです。エジプトを出て行く時に食べた種なしパンを食べながら、神さまの救いの恵みを味わい喜ぶのです。
ただ、事はそれほど単純ではありません。種なしパンの祭りにおいては、パン種を徹底的に取り除くことが命じられているからです。パン種の入ったパンを食べた者はイスラエルの民の中から絶たれるとまで言われています。これはただ事ではありません。
新約聖書と合わせて見るならば、パン種は罪の問題に例えられていることが分かります。パン種という言葉によって理解されているのは、わずかなパン種がこねた粉全体を膨らませるように、わずかな罪の種が全体に膨らんでしまうという意味のことです。小さな罪が大きく膨らんで全体を悪くしてしまう、そのようなものとして、パン種を丁寧に取り除くことが強調されているのです。
パウロはコリントの教会に宛てた手紙において、「古いパン種を取り除きなさい」と命じています。しかし、同時に、「あなたがたは種なしパンなのですから」とも言っています。古いパン種を取り除いて、きれいな種なしパンになることを求めているのではありません。その反対です。あなたがたは種なしパンです、だからこそ、古いパン種を取り除きなさい、そのように言っているのです。コリントの教会の人々、そして、私たちはすでに種なしパンなのです。それはイエスさまが過越の子羊として屠られてくださったことによって実現しました。イエスさまが過越の子羊としてほふられてくださったのであり、そのイエスさまを自分の救い主として信じ受け入れる私たちは種なしパンなのです。ただ、同時に古いパン種を取り除く必要のある者です。
古いパン種を取り除くとは、自分の心の中をすみずみまで監視して、とにかく徹底的に罪の種を取り除いて、清さを保っていこうとすることではありません。そして、自分の力で罪の種を取り除いた気になって、そう見えない人を安易に裁くことでもありません。そうではなくて、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの恵みのうちに留まり続けることです。罪人の自分が罪を赦されて新しく生きるために、イエスさまが過越の子羊として屠られてくださった、その恵みを受け取り続けていくのです。それは真面目に罪と向き合っていくことです。自分の罪と向き合いながら、その罪が赦されるために、神さまが成し遂げてくださった救いの恵みを喜び味わうのです。一言でまとめるとすれば、悔い改めです。悔い改めとは、単なる反省の繰り返しではなくて、神さまの方を向いて、神さまの恵みに生かされ続けていくことです。
現在の私たちは過越の祭りも種なしパンの祭りも守っていません。イエスさまが過越の子羊として屠られてくださったからです。過越の祭りや種なしパンの祭りによって指し示されている神さまの救いは、主イエスさまの十字架の死と復活によって成し遂げられているのです。そして、そのイエスさまが定めてくださった聖餐の恵みに、私たちは与ります。イエスさまの流された血潮と砕かれたからだによって、罪を赦されて新しく生かされている恵みを味わい喜び、そして、養われていくのです。
イエスさまは私たち一人ひとりを聖餐に招いていてくださいます。聖餐の恵みに与るために、自分で自分のパン種を取り除く必要はありません。求められているのは信仰です。イエスさまこそが自分の罪のために過越の子羊として屠られてくださった救い主である、このことを信じ受け入れて、洗礼を受けた人は誰でも聖餐に招かれているのです。
信仰をいただいて、過越の子羊として屠られてくださった主イエスさまに養われて生きる私たち一人ひとりであらせていただきたいと思います。
祈り
イエスさまが過越の子羊として屠られてくださったことによって、私たちが種なしパンとされている恵みを覚えて感謝します。新しく始まる一週間も、自分の努力によってではなく、イエスさまの十字架の死と復活によって成し遂げられた救いの恵みに与り続けながら、種なしパンとして歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。