詩篇41編の詩人は「弱いっている者に心を配る人」を「幸い」だと宣言しています。「弱っている者に心を配る」のは、とても素晴らしいことのように思います。しかし、実際には、それほど単純なことではないのかも知れません。心を配っているつもりで、心を配っていることになっていない、そんな経験を繰り返す私たちだからです。
ある先生は、「弱っている者に心を配る」とは、相手の弱さを背負っていくことだと言われていました。私の勝手な理解ですが、それは、からだの弱さ、心の弱さ、様々な弱さを抱えた相手に寄り添って、ともに生きることです。
私は、「弱っている者に心を配る人」という言葉をから、イエスさまと私たちのことが思い浮かびました。イエスさまこそが弱っている私たちに心を配ってくださった方だ、そのように思うのです。
罪人の私たちは何らかの弱さを抱えています。罪人だからこそ、弱さがあるのです。しかし、イエスさまはそんな私たちに心を配っていてくださいます。私たちの弱さを背負っていてくださいます。そして、イエスさまに背負うことのできない弱さはありません。私たちは、どんな弱さも、イエスさまの御前に注ぎ出して祈ることができるのです。
詩篇41篇の詩人はまさに「弱っている者」でした。詩人に心を配る人はいませんでした。しかし、神さまは心を配っていてくださる、そう信じて祈り続けることができたのです。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(ペテロの手紙第一5章7節)