- 日時:2025年06月22日(日)
- 聖書箇所:第一コリント5章1~8節
- 説教題:誠実と真実が育む礼拝
●暗唱聖句
ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。
第一コリント5章8節
●説教音声
●説教要旨
◎罪を悲しむ者こそ慰められる
パウロは5章に入って教会に起こっていた具体的な問題について触れていきます。教会に不道徳な教会員がいました。「淫らな行い」「異邦人の間にもないほどの淫らな行い」「父の妻を妻にしている者」と読むのも躊躇するような言葉が続きます。
不道徳に対するパウロの態度は明確です。「私はすでにさばいた」「サタンに引き渡した」と毅然とした態度を示します。もちろん滅ぼすためではなく「彼の霊が主の日に救われるため」であると言いますが、それにしても厳しい言葉です。
不道徳の中にある者も問題ですが、パウロはそのような不道徳な者が教会にいて、それを解決しようとしない教会のあり方を追及します。解決しようとしないだけではなく、思い上がっている、と厳しく責めました。
教会の兄弟姉妹の交わりの中に不道徳な者がいた。そのとき教会はどのように対応するのか。「取り除くべきではなかったか」とパウロは語りますが、そのように排除してことが済むのだろうか。そんなことをしたなら誰も教会に集うことができなくなるのではないか。そうして築こうとする聖さとはいったいなんなのだろうか。かといって、そのままにしておくことが良いのか。それが愛なのだろうか。赦しを語るのが教会ではあるが、不道徳を容認すること、許容することが果たして愛なのだろうか。十字架のことばは滅びる者には愚かであるが、救われる私たちには神の力である、とパウロは語りました。十字架の力によって解決するのが教会であるとすれば、果たして十字架の力によって解決するとはいったいどういうことなのだろうか。簡単には答えの出ないことだと思います。
「それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか」(2)。
「思い上がる」。ふくらませる、という意味の言葉です。ふくらませることで大きく見せよう、立派に見せようとしているのですが、その中身はからっぽです。如何に立派に見えても、罪に向き合って真実に悲しむ、ということができない教会は、中身が空っぽの教会なのです。あるいは罪に向き合うことが出来ないからこそ、罪から目をそらすために、大きく見せようとしているのかもしれません。
しかし十字架の力を知っている者、すなわち自らの罪はキリストの十字架において解決されたと信じている者ならば、真実に罪に向き合うことが出来るのではないか。そうして罪を悲しむことが出来るのではないか。たとえ取り除くことはできなくても、この「悲しむ」ことができるならば、そこに解決の道が見えてくるのではないだろうか。その力を教会は神さまからいただいているのではないだろうか。それが十字架の力なのではないか。パウロはそう語るのだと思います。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(マタイ5・4)。
真実に罪に悲しむ者だけが、真実の慰めをいただくことが出来るのです。
◎救われた者は誠実と真実の礼拝を献げる
6節からパン種の話しが出てきました。イスラエルの民が、奴隷とされていたエジプトの国から脱出する際、神さまから「過越の祭り」を祝うようにと言われました(出エジプト記12章)。そのとき羊が屠られ、種なしパンと苦菜と一緒に食しました。イエスさまはこの「過越の祭り」で献げられる子羊として十字架に自らをお献げくださいました。過越の祭りの食事であった最後の晩餐においてイエスさまは聖餐式を制定されました。イエスさまを信じて救われた者は、新しい「過越の祭り」として聖餐式を祝います。
聖餐式のパンはこんにち種の入ったパンも多く使われていますが、教会によっては種なしパン、あるいはそれを模したものを用いるところもあります。いずれであっても大切なのは、十字架において自らの罪が解決されたこと、すなわち赦されたこと、そして聖められたことを、喜びをもって祝うことです。キリストのからだを食することで、すでに神の子とされた者が、神の子とされていくことを信じて、喜びをもって食するのです。
その聖いはずであるパンに混ざりものが含まれたままで平気で食している。それがコリントの教会の姿だと言います。混ざりものとは、不道徳を指しているとともに、そのような罪に対してみて見ぬふりをしている教会自体のあり方です。聖くないパン、混ざりもののパンを食していては聖くされるはずがありません。それが教会に存在する罪を解決しない教会の姿であるというのです。
パウロは、キリストのからだである教会が、真実の教会であり続けることを願います。「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか」「あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」「古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか」。
真実の教会であるためには、真実の礼拝が捧げられていなければなりません。真実の礼拝となるためには、罪に真正面から向き合い、罪を悲しむ覚悟が必要なのだと思います。どんなにプログラムが充実していても、罪に向き合い、罪を悲しむことが曖昧にされているならば、そこには真実の慰めも、救いもありません。
誠実と真実をもって礼拝をおささげしたいと思います。高慢になることから解き放たれて、自由な心で十字架の前に立ち、解決されなければならない自らの罪を振り返り、すでにその罪は解決されたことを喜びをもって信じたいと思います。
●祈り
誰彼の罪ではなく、私自身の中にある罪に向き合わせてください。その罪にこそ、主が十字架にかかり解決してくださったことを信じさせてください。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。誠実と真実をもって礼拝を献げる者としてください。

