主日礼拝説教:2025年6月15日(日)
聖書箇所:出エジプト記10章21~29節
説教題:闇の中に光が
●暗唱聖句
人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。
出エジプト記10章23節
●説教要旨
イスラエルの子らに光
イスラエルの民の解放を認めないファラオとエジプトの地に、今度は闇の災いが降りかかります。それは「さわれるほど」の闇でした。エジプトの民は、「互いに見ることも、自分のいる場所から立つことも」できなくなりました。しかも三日間です。「さわれるほど」の闇の中で、エジプトの民は、自分のいるところも分からなくなる、自分自身をも見失う、そのような経験をしました。しかし、その一方で、イスラエルの子らが住んでいるところには、光がありました。
イスラエルの民が住んでいるところに光があったというのは、神さまがともにいてくださったことを示しています。イスラエルの民の間には、神さまご自身がともにいてくださいました。だからこそ、光があったのです。
聖書が語る闇というのは、神さまを見失っている世界です。神さまから離れて、神さまを見失って生きる罪人の世界、それが闇です。そして、その闇の中において、私たちは本来の自分を見失ってしまいます。神さまに造られた自分、神さまに愛されている自分、神さまに支えられ導かれて生きる自分、そんな本来の自分を見失ったままでいるのです。さらには、そんな闇の中にいることすらも分かりません。そこに闇の恐ろしさがあるのです。
私たちは神さまに造られた者です。神さまに愛されている者です。神さまとの交わりの中で、神さまの愛に満たされて生きる、それが本来の私たちの姿です。そして、私たちがその本来の自分を取り戻すのは、光の中においてしかありません。神さまの御前においてです。
出エジプトの出来事は、神さまが主イエス・キリストを通して成し遂げてくださった救いのみわざを指し示しています。「さわれるほど」の闇に覆われたエジプトの地で、イスラエルの民とともにいてくださった神さま、主イエス・キリストは、闇を照らす光として、私たちの世界に来てくださいました。なぜなら、私たちには光が必要だからです。私たちは、光なしには、生きることができないのです。私たちが生きるべきところは、闇の中ではなく、光の中なのです。
イエスさまは闇の中に輝く光です。イエスさまこそがまことの光です。そして、そのイエスさまはいつも私たちを光の中へと招いていてくださいます。
分からないのです!
三日が過ぎたのだと思います。ファラオはモーセを呼び寄せました。そして、イスラエルの民がエジプトを出て、主に仕えることを認めます。ただし、条件があります。それは羊と牛をエジプトに残しておくことでした。
モーセは妥協をしません。あくまでも、自分たちの家畜を連れて行くと宣言します。そして、その理由として、モーセは「あちらに着くまでは、どれをもって主に仕えるべきか分からない」からだと説明します。礼拝において、どの家畜を献げるのか分からない、モーセはそのように説明をしているのです。実際に、献げ物について、モーセが神さまから教わるのは、エジプトを出てからのことでした。
モーセは分かっているふりをしたりはしませんでした。正直に「分からない」と言いました。そして、分からないことで、困っているようではありません。分からないけれども、神さまが教えてくださる、そのことを確信しているように感じます。
光の中を生きるとは、悟りの境地に達するようなことではありません。すべてを見通して、いつも正しい判断を下せるようになることではありません。そうではなくて、何も分かっていない自分を認めることです。何も見えていない、何も分かっていない、そんな無知な自分を認めることです。そして、だからこそ、神さまの導きを必要とするのです。分からないからこそ、闇の中に照らされる神さまの光に導かれて、神さまから教えられて生きようとするのです。そして、神さまはそんな私たちの光となっていてくださいます。神さまは私たちを愛していてくださるからです。
モーセと同じように、私たちも分からない者です。一寸先のことも分からない者です。分からないからこそ、恐れます。不安になります。自分が何をしているのか、自分でもよく分からないことをしてしまいます。しかし、そんな私たちを、主イエスさまは愛していてくださいます。そして、私たちの光となっていてくださいます。
●祈り
主イエス・キリストの父なる神さま、ちゃんと見えているようで、何も見えていない私たちです。闇の中にあるような私たちです。しかし、そんな私たちを愛して、私たちの光となっていてくださることを、心から感謝します。十字架の死と復活の光に照らされながら、いつもあなたに愛されていることを覚えて、あなたに支えられて生きることができますように。新しい一週間の歩みも導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。