詩篇38編の詩人は重い病を患っていたようです。身近な人からも避けられるような病です。詩人は重い病に侵されている自分の状態を「罪のゆえ」と告白しています。
旧約聖書の時代、イスラエルの社会では、病を罪の結果と考える雰囲気がありました。イエスさまの時代も同じです。しかし、病が罪の結果であるというのは、聖書の教えるところではありません。罪は罪であり、病は病です。聖書はそこに因果関係を認めていません。むしろ、聖書が証しするのは、病に苦しむ私たちに寄り添っていてくださる神さま、その神さまの愛です。神さまは、病で苦しむ私たち、様々な問題で悩む私たちに、寄り添っていてくださる方なのです。そして、詩篇38編の詩人は、その神さまの愛をよく知っていたのだと思います。だからこそ、神さまに向かって、「主よ 私の救いよ」と呼びかけることができたと思うのです。
詩人は一人の罪人でした。私たちも一人の罪人です。しかし、神さまはその罪人の私たちを愛していてくださいます。神さまの愛は決して変わることがありません。私たちは、病める時も、健やかなる時も、どんな時にも、「主よ 私の救いよ」と、神さまに向かって呼びかけることができるのです。
どんな時にも「主よ 私の救いよ」と呼び求めることのできる幸いを喜びながら、神さまを待ち望みましょう。
まことに主よ あなたを私は待ち望んでいます。
わが神 主よ あなたが私に答えてくださいます。(詩篇38編15節)