詩篇36篇の詩人は「悪しき者の背きのことば」を聞いています。そして、「悪しき者」の「悪しき」姿を歌います。その言葉には「自分はそうではない、自分は正しい」という思いが込められているようにも感じられます。しかし、詩篇36編全体を見てみると、詩人は、単純に自分を正しい者として、「悪しき者」をさばいているのではないように思えてきます。
「注いでください」。神さまを賛美した後、詩人は神さまの恵みと義を求めています。自分は正しい、「悪しき者」とは違う、そのように自分の義を主張しているのではありません。詩人は神さまの恵みと義を必要としているのです。神さまが恵みと義を注ぎ続けてくださらなければ、自分もまた、神さまに背く「悪しき者」に過ぎない、そのことを、詩人はよく分かっていたのだと思うのです。
詩人が神さまの恵みと義を求めるのは、神さまが恵みと義を注いでいてくださらないからではありません。神さまが恵みと義を注いでいてくださる、神さまの恵みと義に生かされている、詩人はそのことを味わっています。だからこそ、なおいっそう、恵みと義を求めているのです。
私たちはあくまでも救われた罪人です。すぐに自分中心に生きる背きの罪を犯してしまうような者です。しかし、だからこそ、神さまは罪人の私たちに恵みと義を注ぎ続けていてくださいます。神さまご自身が私たちの避けどころとなっていてくださるのです。
人の子らは 御翼の陰に身を避けます。(詩篇36編7節)