詩篇34篇の詩人は「私のたましいは主を誇る」と告白しました。その詩篇34編は、前書きによると、「ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去った」出来事が背景とされています。
ダビデは、すでに神さまから油を注がれて、王となることが約束されていました。しかし、時の王であるサウルに追われて、外国にまで逃げなければならないような状況でした。そして、ガテの王アキシュの許に身を寄せても、身の危険を感じて、頭がおかしくなったふりをしながら逃げ去らなければならなかったのです。
頭がおかしくなったふりをして逃げたダビデの出来事を念頭に置く時、「主を誇る」という詩篇34篇の告白は、「主だけを誇る」なのだと思わされます。
ダビデの誇りはズタズタに引き裂かれていたことと思います。ダビデはどんなにみじめだっただろうか、私には想像もできないほどです。しかし、そのダビデを、神さまは支え続けてくださいました。そして、その神さまを、ダビデは誇りとしたのです。それは神さまだけを誇ることでした。
ダビデと私たちは違います。しかし、イエスさまの十字架を見上げる時、私たちもまた、何も誇ることのできない者であることに気づかされます。しかし、その私たちの歩みを神さまは支えていてくださいます。神さまだけが私たちの誇りなのです。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ/ 霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34篇18節)