- 日時:2025年05月11日(日)
- 聖書箇所:コリント人への手紙第一4章1~5節
- 説教題:さばくことから自由にされる
●暗唱聖句
ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません
第一コリント4章5節a
●説教要旨
◎神の前に忠実に生きる(1、2節)
「人」、すなわちキリストを信じるすべての人は、「私たち」、すなわちパウロであれアポロであれ、おおよそ伝道者のことを、キリストのしもべ、神さまの奥義の管理者と考えるべきである、とパウロは語りました。管理者とは執事、ハウスキーバーのことであり、主人でも、逆に奴隷でもありません。その管理者に要求されることは、この場合、主人に対して忠実であることです。
コリントの教会に対してこのように語られなければならかったのには、彼らの中でこの点が不明確になってしまっていた、ということだと思います。すなわち、伝道者は、神のしもべ、神の奥義の管理者である、人に対してではなく神さまに対して忠実なものである、ということが不明確になっていた。それがコリントの教会に問題を生み出していたのです。
管理者であることが分からなくなるという事態。それは伝道者を神の奥義の支配者にしてしまうということかもしれません。あるいは伝道者が神さまに対して忠実に生きるよりも、自分たちに対して忠実に生きることを求めたのかもしれません。いずれにせよ人間をまるで神のようにしてしまうならば、問題が起らないはずがありません。
管理者であることが大切にされるために、伝道者は自らを戒めなければなりません。人に仕えるのでも、自分自身に仕えるのでもなく、ただ神さまに仕える。それを見失ってはなりません。また主にあるお互いは、伝道者が神さまに仕える者であるひとりの人間である。それを見失ってはなりません。ともに神さまの前に忠実に生きることが期待されているのです。
◎他人を、そして自分をさばく罪(3~5節a)
福音の管理者であることが見失われ、支配者になってしまうとき「さばく」ということが起こります。点数をつけるのです。パウロはさばかれ続けてきた人でした。そのパウロが、人間にさばかれることは非常に小さなことである、少しも問題ではない、意に介さない、と言いました。それどころか、自分で自分をさばくことさえしない、と言い切ります。人からの称賛の言葉が聞こえればうぬぼれ、逆に否定的な評価を受ければ落ち込んでしまう。そんなことから自分は自由にされていると言うのです。他者をさばかずにはいられないのは、自分自身をさばくことから解放されていないのかもしれません。
神の奥義の管理者には、神さまへの忠実さが求められているのですから、神さまからの評価を気にしていればよいのです。しかし、神の奥義の支配者になってしまうとき、そして神さまに対してではなく、いたずらに人間に忠実になろうとしてしまうとき、人間にさばかれることは重大な問題となってしまう。もし人の評価が気になる、他者が自分をどのように思っているかが気になって仕方がない、というならば、それは神の奥義の管理者であることが見失われてしまっている。さばくということは罪なのです。
自分にはやましいことは少しもないが、それによって義と認められているわけではない、とパウロは語りました。人間でしかない自分が、自分を省みて、やましいことが少しもないから義と認められているなどと言うことはできない。義と認めるかどうかは、神さまがお決めになることです。さばくのは神さまご自身です。であるにも関わらず自分がさばくなどということは、自分を神にしていることです。
ですから誰かに対しても、また自分に対しても、何についても、先走ってさばいてはいけません。さばくということは、管理者ではなく、支配者になっているのです。支配者は神さまだけです。すべてのことをご存じの主が来られるとき、闇に隠れたことも、心の中のはかりごとも一切を明らかにされます。私たちはひたすらそのときを待ち望んでいます。主にすべてを委ねつつ待ち望んでいます。
◎神の愛のことばを聞こう(5節b)
「そのとき、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです」。驚くべきことばです。
主が来られたならば、すべてのことが明らかにされるのですから、称賛どころか、さまざまな刑罰が与えられると考えなければならないところです。しかしパウロは、主にある者には、称賛が、ほまれが与えられるのだ、と大胆に語りました。
もし私たちの行いによってさばかれるだけならば、そのさばきに耐えられる者は一人もいないでしょう。しかしすでに自分で自分さえもさばかない、と言い切ったパウロには、深い確信がありました。義と認めるのは、神さまご自身である。その神さまが、御子イエスさまを十字架に磔にし、私たちの罪一切を赦してくださった。死から復活し、今ともに生きていてくださる。最終的な審判の時とは、主にある者にとっては、称賛を頂くとき以外の何ものでもない。パウロのダマスコ途上の決定的な主との出会い(使徒9章)から生まれた信仰は揺るぎません。
主の再臨を待ち望む者とされた私たちは、もはや戦々兢々と自らをさばくことから自由にされ、また共に生きる人たちをさばかずにはいられないことからも解放され、ひたすら主の愛のことばを聞く者とされました。日々起こりくる事々の中にも、神さまの愛の御手を発見します。聖書を読むときにも、そこにひたすら神さまの愛の御声を聞くのです。もはや私たちを恐れさせるものは何もないのです。
●祈り
まことのさばき主であるあなたを待ち望む者としていただきまことを感謝します。他者をさばくことから、そして自分自身をさばくことからも自由にしていただきました。ひたすらあなたの愛の御声を聞くことを喜びとさせてください。