詩篇33編の詩人は何よりもまず「主を喜び歌え」と呼びかけています。そして、同じ詩篇の後半では「私たちのたましいは主を待ち望む」と告白しています。
喜びというのは感情の動きです。心の中から自然と沸き上がってくるものです。命令や勧めによって、喜んだり喜ばなかったりするものではないのだと思います。
また、待ち望むというのは、望んでいる事柄がまだ実現していないことを物語っています。忍耐が要求される状況が続いています。待ち望むのは忍耐を必要とする状況が続いているからです。そして、詩人はそのような自分たちの状況を踏まえて、その上で、「喜び歌え」と呼びかけているように思います。忍耐を必要とするような状況の中で、「喜び歌え」と招いているのです。
詩人は「主を喜び歌え」と呼びかけています。私たちが喜び歌うのは主です。神さまご自身です。そして、主を喜び歌う根拠は主ご自身にあります。私たちの何かではありません。周りの状況でもありません。主ご自身が喜びの根拠なのです。たとえ喜ぶことができないような時にも、主はともにいてくださる、私たちを愛していてくださる、その主の豊かな恵みを覚えて、私たちは喜び歌うのです。
主の慈しみは絶えることがない。/ その憐れみは尽きることがない。/ それは朝ごとに新しい。/ あなたの真実は尽きることがない。/ 「主こそ私の受ける分」と私の魂は言い/ それゆえ、私は主を待ち望む。(哀歌3章22~24節、聖書協会共同訳)