詩篇の祈りに導かれて(29)(週報2025年4月13日号)

 詩篇29編では、冒頭から「主に帰せよ」という呼びかけが繰り返されます。主に帰するのは「栄光」です。なぜなら、栄光は、まことの神さま、主のものだからです。そして、「主に帰せよ」という呼びかけが三度も繰り返されているのは、私たちが栄光を自分のものにしてしまいやすいからなのだと思います。

 「主に帰せよ」という呼びかけの後、詩人は「聖なる装いをして主にひれ伏せ」と続けます。「聖なる装い」とは、神さまのものとされていることを示す格好です。もちろん、単なる格好の問題ではありません。神さまのものとされている人が聖なる装いをしているのです。

 私たちが神さまのものとされるのは、主イエス・キリストの血潮によってです。主イエスさまが十字架にかかってくださったのは「私」の救いのためだった、その恵みを信じていただく者が聖なる装いをしているのです。雷鳴をとどろかせることのできる神さまが、罪人の「私」を救うために、十字架にかかってくださった、その愛に触れて、私たちは神さまの御前にひれ伏します。

 聖なる装いとはキリストを着ることです。イエスさまこそが自分の救い主であることを信じ受け入れて、心の王座にお迎えすることです。それが神さまの栄光につながるのです。

人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12章23~24節)


投稿日

カテゴリー:

,