主日礼拝説教:2025年4月6日(日)
聖書箇所:出エジプト記8章5~19節
説教題:これは神の指です
暗唱聖句
しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
ルカの福音書11章20節
説教音声
説教要旨
主に祈れ
イスラエルの民を解放しようとしないファラオは、神さまの力強い御手を経験していくことになります。十の災いです。一つ目は血の災い、二つ目は蛙の災い、三つ目はブヨの災いです。
アロンがナイル川の水を打つと、水が血に変わりました。エジプトの民は水を飲めなくなりました。しかし、そんなことはおかまいなしだったのか、ファラオは呪法師たちに同じことを行わせます。自分たちの民を救うために、血に変わった水を元に戻させたのではありません。ただ、モーセとアロンに対抗するために、同じように水を血に変えさせたのです。
次に、アロンは水の中の蛙を地上に這い上がらせました。たくさんの蛙がエジプトの地を覆いました。そして、今度もまた、ファラオは呪法師たちに同じことを行わせます。呪法師たちも蛙を地上に這い上がらせました。
ファラオはあくまでもモーセとアロンに対抗します。しかし、このことは自分たちの民を苦しめただけのことでした。そして、ファラオと呪法師たちには、自分たちの民を救い出す力がありませんでした。ファラオは、モーセとアロンを通して、まことの神さまである主に助けを求めるしかありませんでした。「私と私の民のところから蛙を除くように、主に祈れ」。
主はファラオの願いを聞いてくださいました。イスラエルの民だけでなく、エジプトの民のことも、本当に考えていてくださったのは、主の方でした。ファラオではありません。イスラエルの主こそが、エジプトの民の救いをも願っていてくださったのであり、実際に救うことのできる方だったのです。主こそがまことの神さまなのです。
主は力のある方です。しかし、力自慢をする方ではありません。主が願っておられるのは、私たちの救いです。そして、そのためには、力を捨てることもできる方です。実際に、主イエスさまは、私たちの救いのために、十字架にかかってくださいました。「十字架から降りて、自分を救ってみろ」、そのように嘲る人々を相手になさらないで、主イエスさまは、力を捨てたままで、十字架にかかり続けてくださったのです。私たちを愛してくださったからであり、私たちが罪を赦されて新しく生きるためです。これはまことの神さまでなければできないことです。
これは神の指です
アロンが地のちりを打つと、ちりはブヨになりました。呪法師たちも同じことをしようとします。しかし、地のちりをブヨに変えることはできません。呪法師たちは「これは神の指です」とファラオに報告しました。アロンが地のちりを打つと、地のちりがブヨとなった、そこに、呪法師たちは「神の指」を見たのです。まことの神さまが生きて働いておられるのを認めたのです。しかし、ファラオの心は頑なになって、呪法師たちの言うことを聞き入れませんでした。
後に、イエスさまは悪霊に捕らえられた人々から悪霊を追い出しておられました。イエスさまはご自分が悪霊を追い出しているのを「神の指によって」と言われました。そして、神の指によるイエスさまのみわざは、神の国が実現していることのしるしでした。神の国、つまり、神さまのご支配は、イエスさまが来てくださったことによって、すでに実現しているのです。
神さまは今も生きて働いておられます。だからこそ、現在の私たちも神の指を見ることができます。それは私たち自身を通してです。私たちは私たち自身を通して神の指のわざを見ることができるのです。ファラオと同じように、頑なに神さまを拒んでいた私たちが、神さまを礼拝する者と変えられている、そのことこそが神さまの働きの証しだからです。神さまを礼拝する私たちこそが、教会として集められている私たちこそが、神の指の証しなのです。「これは神の指です」、それは私たち自身のことです。
「これは神の指です」と、ファラオに報告した呪法師たちの声は、あまりにも小さなものでした。現在の教会も大きな世界の中ではとても小さなものです。どこにも神の指を見ることができないように思うことがあります。
しかし、どんなに小さくても、教会があるならば、私たちはそこに神の指を見ることができます。神の指があったからこそ、神さまが働いていてくださるからこそ、教会はあるのです。小さな私たち自身が、神の指の証しなのです。そして、小さな私たちを通して、神さまはいつも豊かに働いていてくださいます。
祈り
ファラオのように頑なな私たちが主イエスさまを信じる者とされているのは、神さまご自身が豊かに働いてくださったからであることを告白します。救われた私たち一人ひとりの中に、その神の指を見ることができますように。そして、変わることなく私たちを愛していてくださるあなたのみわざを、いつも信じて期待する私たちであらせてください。新しい一週間の歩みを祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

