説教音声・要旨 2025年3月23日(日)

  • 主日礼拝説教:2025年3月23日(日)
  • 聖書箇所:第一コリント3章1~9節
  • 説教題:御霊に属する者となろう

●暗唱聖句

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
第一コリント3章7節

●説教音声

●説教要旨

◎肉に属する者から御霊に属する者へと成長するキリスト者

 コリントの教会には「ねたみと争い」がありました。ねたみとは、自分よりもすぐれている人に対していだくよこしまな心です。人間は自分が劣っているということでは生きていけないので、何とか自分を大きくしよう、すぐれている者としようとして、結果、他の人をけなしたり、低く見ようとしたりします。そういう心があると、争いが生まれます。
 ねたみはどこから生まれるのか。ねたみという言葉は原文のギリシャ語では、熱心と訳される言葉でもあります。何かに熱心になっているからこそねたみが沸き起こってくる。何に対して熱心になっているのか。私たちにはいろいろとこだわりがあり熱心になる者ですが、結局のところ、自分自身に熱心になっているのだと思います。アダムとエバが罪を犯したとき(創世記3章)に、蛇の誘惑に負けたのは、神さまよりも自分の判断力に熱心になったからです。カインが弟アベルにねたみを抱き殺害したのも、自分の献げ物に熱心だったからです。
 パウロは、そのようなねたみと争いがあるのは、肉に属する人、キリストとの関係では幼児である証拠だ、と厳しく語りました。そして霊に属する人、すなわち信仰の大人になってほしいと切に願いました。
 信仰は成長するものです。それは初歩の教えからより高度でいわゆる霊的な教えを受けているということではありません。福音の真理は単純なものです。パウロは、キリストの十字架以外は知るまいと決心した(2章2節)というのですから、結局は十字架による救いだけです。しかしそれが語られるときに、御霊に属する人として聞くことが出来るか、それとも依然、ただの人としてしか聞けないのか。私たちは、御霊に属する人、すなわち信仰の大人へと成長するように招かれています。
 では御霊に属する人、信仰の大人とはいったいどういう人のことでしょう。

◎御霊に属する人~「パウロとは何ものなのでしょう」

 コリント教会において、ねたみと争いは具体的には、党派を作るという形で現れていました。これはすでに1章で学んだことです。私はアポロにつく、といって他の人を低く見ようとした。そうして自分たちこそ優れているとしようとした。あるいはそうしなければいられなかった。そういう人たちに対してパウロは語りました。
 「アポロとは何者なのでしょう。パウロとは何ものなのでしょう」。
 伝道者として召されて気になることの一つは、やはり自分がどれだけ神さまに用いられているだろうか、ということではないかと思います。ですから私はパウロにつく、などと言われれば悪い気はしなかったであろうと思います。しかしこれは伝道者にとって大きな誘惑です。パウロ自身が、パウロとは何者なのか、あなたがたが信じるために用いられた奉仕者に過ぎないではないか、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしただけではないのか。単なる道具なのではないか。そう自らを語りました。
 自分とは何者であるのか。取るに足りないものではないか。パウロはそれを見失わなかったのです。伝道者に限りません。自分が何者であるのか、を見失ってしまったときに、さまざまな問題が生まれます。自分自身が生きられなくなります。また周りの人たちを破滅に向かわせてしまいます。
 真に霊的な人とは、自分が何者であるのか、をわきまえ知っている人のことです。ねたみや争いから解放され、健やかに生きるために、私たちは、このことを見失わないようにしましょう。
 キリスト教信仰の成長とは、登っていくことではなく、一段一段降っていくことなのです。主とともに。主のように。

◎御霊に属する人~「それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです」

 キリスト教信仰の前進を植物の成長になぞらえるとすれば、働き人たちは、植える者、水を注ぐ者である、といいます。しかし種自身は神さまがお造りくださったものであり、成長させてくださるのも神さまご自身です。パウロやアポロといった働き人たちは、それぞれ自分に与えられた役割に応じて分を尽くしただけなのです。
 働き人たちは、それぞれの働きに応じて自分の報酬を受けることを知っています。御霊に属する人は、この神さまからの報酬を知っているのです。
 では報酬とは何か。ここに「私たちは神のために働く同労者である」、そして「あなたがたは神の畑、神の建物である」と語られました。報酬とは、天国で何かご褒美がいただけるということがあるのかもしれませんが、この御言葉を思い巡らすならば、神さまと一緒に働くということの喜び、そしてそれによって、教会が建てあげられていく、人びとが信仰の成長に前進していくということ自体が、働き人にとって大きな報酬であることを思います。
 神さまのために働く同労者という言葉は、農場主の神さまのもとで働くパウロやアポロといった働き人仲間のことを指しているのですが、常に力強く働いていてくださる神さまと一緒に働く同労者という意味です。働いておられるのは神さまです。その神さまが報酬を払ってくださる。報酬を支払ってくださる神さまを同労者と呼ぶのは畏れ多いことです。しかし私たちの神さまはそう呼ばれることを喜びとしてくださるのだと思います。そのお方のために働く喜び、そしてそのお方ととともに働く喜び。信仰の大人、霊に属する人は、それを見失いません。
 これも伝道者だけに限ることではありません。主にある者はみな神さまの同労者としての喜びに生きるようにと招かれています。

●祈り

 御霊に属する人へと成長させてください。自分中心から生まれるねたみや争いから解放してください。ただあなたを大切にして生きる者としてください。あなたのために働く喜びを確かにさせてください。そうして共に生きる人びとの中に遣わしてください。争いではなく平和の使者として。

説教20250323-01
説教20250323-02


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