詩篇の祈りに導かれて(26)(週報2025年3月23日号)

 詩篇26編は「主よ 私を弁護してください」という言葉から始まります。「弁護」という特別な言葉が使われていることからして、詩人は誰かに訴えられているのだと想像できます。被告の席に立たされているのです。そして、詩人を弁護できるのは神さまだけです。

 私たちも弁護を必要とすることがあります。人と人との関係においては、誰かから弁護をしてもらうことができます。しかし、神さまの御前においては、誰にも弁護してもらうことができません。神さまに対する罪の問題は、神さまご自身にしか、解決していただくしかないのです。そして、その罪の解決のために、神さまは主イエス・キリストの十字架の死と復活のみわざを成し遂げてくださいました。さらには、主イエスさまを信じて生きる私たちに一人ひとりに、弁護者を送り遣わしていてくださいます。それは聖霊なる神さまご自身です。聖霊なる神さまご自身が、私たちのうちにおいて、私たちを弁護していてくださるのです。

 救われたからと言って、何の罪も犯さない者になるのではありません。私たちはすぐに神さまを脇へ押しやり、自分が中心になる罪を犯してしまいます。罪人として訴えられても、仕方のない者です。しかし、そんな私たちのために、神さまご自身が弁護していてくださいます。私たちは、主イエスさまの血潮によって、義とされているからです。

御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人への手紙8章27節)


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