主日礼拝説教:2025年3月16日(日)
聖書箇所:出エジプト記6章2~13節
説教題:わたしは主である
暗唱聖句
神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは主である。」
出エジプト記6章2節
説教音声
説教要旨
わたしの契約を思い起こした
神さまの命令に従って、ファラオにイスラエルの民の解放を求めたモーセは、ファラオから拒絶され、より苛酷な労働を課せられたイスラエルの民からも恨まれることになりました。そして、そんなモーセに、神さまは改めて語られました。「わたしは主である」。そして、さらには、「アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった」と続けられます。
創世記を見てみると、実際には「主」という神さまのお名前は何度も出てきます。「人々は主の御名を呼ぶことを始めた」という言葉もあります。しかし、神さまは敢えて「主」というお名前を始めて明らかにするかのように語っておられます。ちょっと不思議な感じがしますが、ここでのポイントは、アブラハムとヤコブとイサクに「全能の神」として現れた神さまと、モーセに「主」というお名前を教えられた神さまは、同じ方であることなのだと思います。主は全能なる神さまなのです。
「全能の神」という言葉を聞くと、私たちは何でもできる神さまをイメージします。しかし、全能なる神さまがアブラハムになさったのは契約の話でした。全能なる神さまは契約の話をされたのです。それは、アブラハムとの間でだけ結ばれた契約ではなく、後の子孫との間においても結ばれた永遠の契約です。神さまは、アブラハムと後の子孫の神となってくださり、彼らをご自分の民としてくださり、その彼らに約束の地を与えてくださる契約を立てられたのです。神さまの全能とは、その契約を念頭に置いた言葉です。
「わたしは主である」とモーセに語られた神さまは、アブラハム、イサク、ヤコブとの間に立てられた契約に改めて触れられます。そして、その契約について、「わたしの契約」という言い方をしておられます。誰かから押し付けられた契約ではありません。「わたしが結んだ契約」です。アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結んだのは、このわたしだよ、このわたし、主が彼らと契約を結んだんだよ、神さまはそう語っておられるのです。そして、その契約に基づいて、イスラエルの民を救い出そうとしておられます。イスラエルの民が契約を忘れても、神さまはずっと契約を覚えていてくださったのです。
神さまは契約に忠実なお方です。どんな時にもご自分の民を愛していてくださいます。神さまの契約は決して変わることのない救いの恵みのしるしです。
たとえ聞くことができなくても
神さまは、アブラハム、イサク、ヤコブとの間に立てられた契約の実現を、モーセを通してイスラエルの民に約束されます。神さまの言葉は、イスラエルの民にとっては大きな励ましだったと思います。
しかし、イスラエルの民はそのモーセを通して語られた神さまの言葉を聞こうとはしませんでした。そして、イスラエルの民が神さまの言葉を聞こうとしなかったのは、「失意と激しい労働のために」と説明されています。イスラエルの民は、失意と激しい労働によって、神さまの言葉に耳を傾けることができなかったのです。
また、モーセも神さまの御前で弱気になっています。イスラエルの民が自分の言葉を聞かなかったのに、どうしてファラオが聞いてくれようか、そのように訴えます、
イスラエルの民は疲れ切っています。神さまの言葉を聞くことができなくなっています。信仰を失っています。モーセも同じです。しかし、それでも、神さまは諦めておられません。神さまは、モーセとアロンに、改めてなすべきことを教えられます。
イスラエルの民の救いは、神さまご自身が決意されたことです。頼まれたからでもなく、仕方なくでもありません。神さまは、イスラエルの民に助けを求められる前から、彼らを愛して、彼らの救いを決意されていたのです。そして、だからこそ、熱心に、忠実に、ご自分の救いのみわざを進めてくださるのです。
私たちは弱い者です。大きな苦しみや痛みの中で、神さまの言葉を聞くことができなくなることがあります。祈ることができなくなることがあります。神さまなんて信じたくないと思うこともあるかも知れません。しかし、そんな時にも、神さまは働いていてくださいます。私たちの救いのために、ご自分のみわざを続けていてくださいます。私たちの救いはそんな神さまに支えられているのです。
祈り
主が、私たちの神となってくださり、私たちをご自分の民としてくださった契約の恵みを覚えて感謝します。どんな時にも契約に忠実なあなたに愛されていることを信じることができますように。新しく始まる一週間の歩みも守り支えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

