詩篇24編において、何と言っても目立つのは最後の7-10節です。「世界とその中に住んでいるもの」が「主のもの」であることを告白し、「主の山」に登る資格を問う詩人は、突然のように、主の山の城門に入る「栄光の王」に目を向けるのです。栄光の王とは、万軍の主、神さまご自身です。
主の山が主の山であるのは、そこに神さまのご臨在があるからです。神さまご自身がそこにおられる、だからこそ、主の山は主の山なのです。
後に、使徒パウロはコリントの教会に集まる兄弟姉妹たちのことを「神の宮」と呼びました。
私たちは主の山に登ることのできない罪人です。しかし、その私たちのことを、神さまは「神の宮」と呼んでいてくださいます。「神の宮」とは神殿のことです。私たちこそが神殿なのです。聖霊なる神さまが私たちのうちに住んでいてくださるからです。
詩篇24編の詩人は、栄光の王のことを、「強く 力ある主」、「戦いに力ある主」と歌っています。栄光の王は私たちのために戦っていてくださいます。
私たちの信仰生活は戦いの連続です。次々に試練や誘惑が襲ってきます。しかし、その私たちのうちには、栄光の王が住んでいてくださいます。そして、栄光の王は、十字架の死と復活のみわざによって、罪との戦いに、すでに完全な勝利を収めてくださっています。
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。(コリント人への手紙第一3章16節)