詩篇の祈りに導かれて(20)(週報2025年2月9日号)

 詩篇20編はとりなしの祈りです。とりなしの祈りとは誰かのために祈ることです。詩篇20編の詩人は王のために祈っています。

 ある先生は、詩篇20編を説き明かしながら、「私たちが他者に対してなし得る最高のことは、その人のために祈ることである」と言われました。

 私たちは「祈ることしかできない」と言うことがあります。「祈ることしかできない」と言う時、そこには少し否定的なニュアンスが込められているかも知れません。本当は何か具体的に助けてあげたいけれども、それができない状況にある、そんな無力感を抱きながら、「祈ることしかできない」と言うように思うのです。しかし、詩篇20編から教えられるのは、その反対のことです。

 詩篇20編の詩人は、王のための祈りを繰り返した後、突然のように自分の確信を表明します。「今 私は知る」。確信の内容は、神さまが、ご自分に油注がれた者を救ってくださることです。彼の祈りに答えてくださることです。そして、詩人はその神さまによる救いを確信しています。だからこそ、戦車や馬ではなくて、主の御名を呼び求めているのです。

 とりなしの祈りとは、他にすることがなくて、仕方なくすることではありません。誰かのためになし得る最高のことです。そして、とりなしの祈りが誰かのためになし得る最高のことであるのは、私たちの祈りが神さまに届いているからです。

隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイの福音書6章6節)


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