主日礼拝説教:2025年2月2日(日)
聖書箇所:出エジプト記4章1~17節
説教題:主に教えられて語る
暗唱聖句
彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。
出エジプト記4章15節
説教音声
説教要旨
信じるために
神さまは、エジプトで苦しむイスラエルの民を救い出すために、モーセを遣わそうとされています。しかし、モーセはその使命を受け取ろうとしません。神さまがともにいてくださり、最終的にエジプトからの脱出が成功することを教えられても、モーセは納得しません。モーセが恐れたのは、仲間であるイスラエルの民が自分を信用してくれないことでした。
神さまはなかなか納得しないモーセに三つのしるしを示されます。証拠としての奇跡です。それは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、モーセに現れたことを、イスラエルの民が信じるためのしるしでした。エジプトで苦しめられていたイスラエルの民は、モーセの言葉だけでは、信じることができなかったのです。
後に、イエスさまは、しるしを求める人々に対して、「なぜしるしを求めるのか」と言われました。弟子たちに対しても、「見ないで信じる人たちは幸いです」と言われました。
私たちは、何らかのしるしを見て神さまを信じるのではありません。神さまからの語りかけを聞いて信じます。神さまからの語りかけの中で、神さまの愛に触れて信じるのです。私たちの信仰生活において、しるしは本質的なものではありません。しかし、そうであるにもかかわらず、神さまがモーセとイスラエルの民にしるしを与えられたのは、神さまが彼らの弱さを受け止めてくださったからです。神さまは、信じることのできないモーセやイスラエルの民を退けるのではなくて、その弱さを受け止めてくださったのです。
私たちもモーセやイスラエルの民と同じように弱い者です。すぐにしるしを求めてしまいます。しるしに左右される信仰生活は実に不安定です。しかし、そんな私たちの信仰と救いが支えられているのは、神さまが私たちの弱さを受け止めていてくださるからです。
主イエス・キリストの十字架によって明らかにされた神さまの愛は、しるしと関係なく、決して変わることがありません。私たちは、そのイエスさまの十字架を見つめながら、決して変わることのない神さまの愛に支えられて生きるのです。
わたしがあなたの口とともにある
モーセは三つのしるしを見ても抵抗を続けます。「私はことばの人ではありません」。モーセは話すことが苦手だったようです。イスラエルの民が信用してくれないことを口実にできなくなったモーセは、自分自身の能力不足を口実にするしかありませんでした。
「ことばの人」ではないと言うモーセに対して、神さまは「わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える」と言われました。モーセに求められたのは、上手に話せるようになることではなくて、神さまを信頼することでした。
神さまがモーセを用いようとされたのは、モーセの能力や特技を見てのことではありません。私たちの場合も同じです。神さまが私たちを用いられる時、そこにあるのは、私たちに知ることのできない神さまのご計画です。モーセでなければならない、「私」でなければならない、「あなたでなければならない」、そんな神さまのご計画です。神さまは、そのご計画に従って、私たちを用いられるのであり、だからこそ、私たちに能力があるかないかは問題にならないのです。私たちを選ばれた神さまご自身がともにいてくださるからです。ともにいてくださる神さまが、語るべきことを教えてくださり、なすべきことを教えてくださるのです。
モーセを用いられた神さまは、現在の私たちも用いようとしていてくださいます。私たち一人ひとりにご計画を持っていてくださいます。私たち一人ひとりにこだわっていてくださいます。
神さまの働きと言われれば、私たちは尻込みをするかも知れません。自分の何かを見て、自分なんてと思うかも知れません。しかし、神さまはそんな私たちとともにいると約束してくださっています。語るべきことを教えてくださいます。なすべきことを教えてくださいます。
神さまを信頼して、そのままの自分を神さまにお委ねさせていただきましょう。そして、神さまの豊かな働きに用いられることができれば幸いです。
祈り
モーセにこだわってモーセを用いられた神さまが、私たち一人ひとりにもこだわっていてくださり、ご計画を持っていてくださることを畏れ多く思います。弱く無力な自分であることを覚えながら、あなたから教えられて語り奉仕することができますように。私たちでなければならないその働きに用いられる私たち一人ひとりであらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

