説教音声・要旨 2025年1月12日(日)

  • 主日礼拝説教:2025年1月12日(日)
  • 聖書箇所:第一コリント1章18~25節
  • 説教題:信じる者を救う神

●暗唱聖句

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

第一コリント1章25節

説教音声

●説教要旨

◎信じる者を救おうと喜びをもって決意された神

「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」(21)

 私たちは、自分の知恵によって神を知ることが出来ません。その、神を知ることが出来ない、ということ自体、神さまの知恵である、とパウロは語ります。
 もし、私のような罪びとが、自分自身の力や知恵で神を知ることが出来たとすれば、その神は本当の神と言えるのだろうか。
 もし、自分の知恵や力で神を知ることが出来るとすれば、人間はますます傲慢になるのではないか。
 罪びとが自分勝手に思い描いた神は、自分に都合の良い神でしかなく、私を救うことなどできるはずがありません。人間の力で知ることのできるような神であるならば、それは人間よりも劣ったものでしかありません。
 もし本当に、私を超えた存在、私を造り、私を導き、私を救うことのできる神であるならば、私の知恵や力で知ることができてしまっては困ります。

 神さまは、「宣教のことばの愚かさ」を通して、「信じる者」を「救うこと」にされました。私の知恵や力で知る、のではなく、信じること。しかも、高尚な学問や、豊かな経験を通して信じるのではなく、「宣教のことばの愚かさ」を通して信じる。
 宣教のことばの愚かさ、とは、十字架のことばの愚かさです。一方的な裁判によって死罪となり、全く弱く貧しい中に十字架上で死んでいかれたキリスト。この世は、十字架のことばを、愚かとしか見ません。その愚かとしか見えない十字架のことばが、私の罪のためであった、そこにこそ神さまの愛が完全に明らかにされたと信じる。それはまさに「信じる」ことによってしか知ることができない。しかしそうして信じた者を、神さまは救うことにされたのです。

 この「救うことにされた」の「された」は、他の訳では「お考えになりました」と訳されています。喜んで決意する、という意味を持っていることばです。
 神さまは、仕方なくそのように決意されたのでなく、まさにわが意を得たり、と喜んで決意されました。それが、この宣教のことばの愚かさを通して信じた者を救おうとされたことなのです。
 不思議に信じる者とされたことを、神さまは喜んでいてくださいます。私の信仰の根底に、神さまの喜びがあります。

◎私たちはキリストを宣べ伝える

「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(25)

 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求するといいます。なにもユダヤ人やギリシア人だけではありません。私たちも神を知ろうとするならば、しるしを要求し、知恵を追求するのではないか。そのような者にとって「十字架のことば」は「愚かなこと」に見えます。
 しかし信じて救われた者にとっては、十字架のことばは、神の力、神の知恵です。私たちは、十字架のことば、すなわち、キリストご自身を宣べ伝えます。「召された私たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリスト」を宣べ伝えるのです。

 「召された私たち」。信じた者、そうして救われた者は、召された者です。
 召す、という言葉は、呼ばれる、という意味です。神さまが呼んでくださった。その呼びかけに答えた者。それが信じた者、救われた者である、とパウロは言いました。
 神さまが召してくださった、というからには、目的があります。しるしや知恵ではなく、この世からは愚かとしか見えない十字架のことばを信じて救われたのですから、その信仰生活も、この世の知恵や力ではなく、この十字架のことば、すなわちキリストに生きる者となるのです。そしてキリストを宣べ伝える者となるのです。
 せっかく人間の知恵や力ではなく、この世が愚かとしか見ない十字架のことば、すなわちキリストによって救われたのに、その信仰生活において十字架のことばではなく、人間の知恵や力で生きようとしているとすれば、おかしなことです。コリントの教会に起こった問題の根底には、この「人間の知恵や力」で生きようとしたことがあったのだと思います。

 私たちは、キリストを宣べ伝えます。個人の信仰生活において、キリストを宣べ伝える。すなわちこの十字架のことばによって生きていこうとする。教会の運営も、宣教活動も、この十字架のことばによって取り組んでいこうとする。この世から見れば、つまずき、あるいは愚かとしか見えない十字架のことばによって教会は前進していくのです。

●祈り

 しるしを求め、知恵を追求しなければいられない私たちの傲慢さをゆるしてください。まことに貧しく弱くなってくださった十字架のキリストを仰ぎ見させてください。そこにこそ、まことの救いがあることを信じる者とならせてください。

説教20250112-01
説教20250112-02


投稿日

カテゴリー:

, ,