主日礼拝説教:2024年12月29日(日)
聖書箇所:出エジプト記3章1~6節
説教題:神は燃え尽きない
暗唱聖句
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
イザヤ書9章7節
説教音声
説教要旨
柴は燃え尽きていなかった
神さまは、エジプトからミディアンの地に逃げて来たモーセに、燃える柴の茂みから呼びかけられました。柴は燃えているのに燃え尽きませんでした。燃えているのに燃え尽きることのない柴の炎は、神さまご自身の性質を示しています。
神さまは決して燃え尽きることのない炎のような方です。決して諦めることのない、熱心な方です。ご自分のみこころを、救いのみこころを、熱心に成し遂げる方です。そして、その神さまの熱心によって、私たちの救いは成し遂げられたのであり、ずっと守られているのです。
かつてはモーセも燃えていました。虐げられている同胞たちを救い出す、神さまからその使命をいただいた、そう思ったモーセの心は激しく燃えていたのです。しかし、実際に同胞たちを助け出そうとして、反対に同胞たちの反感を買うことになると、熱く燃え上がった炎は一瞬で消えてしまいました。モーセは簡単に燃え尽きてしまったのです。
エジプトで苦しめられている同胞たちが気になることもあったはずです。しかし、モーセは黙々と羊の群れを飼い続けました。まるで、エジプトの地で苦しめられている同胞たちを忘れようとしているかのようです。モーセは、イスラエルの民を救い出す、神さまからいただいたその使命から逃げるようにして、羊の群れを飼っていたのです。しかし、そのモーセに神さまは呼びかけられたのです。なぜなら、神さまは諦めておられなかったからです。モーセに使命を与えられた神さまは、モーセを諦めておられなかったのです。そして、モーセを通して成し遂げようとしておられたご自身のみこころ、イスラエルの民の救いを、神さまは成し遂げていかれるのです。
モーセは失敗しました。挫折しました。諦めました。燃え尽きてしまいました。
私たちも同じです。信仰生活は失敗の連続です。成長しない自分が嫌になります。勇気を出して福音を伝えても、関心を持ってもらえなくて、すぐに諦めます。教会の奉仕が上手くいかなくて、落ち込むこともしばしばです。そして、失敗や挫折を繰り返しながら、燃え尽きてしまったりします。しかし、神さまはそんな私たちとともにいてくだいます。
モーセに呼びかけられた神さまは、いつも燃えておられます。決して燃え尽きることがありません。そして、いつも変わることのない熱心さで、私たちを支えていてくださいます。私たちが、失敗して落ち込んでいる時も、燃え尽きてしまっている時も、神さまは変わりません。神さまは、燃え尽きることなく、変わることのない熱心さで、私たちを支えていてくださるのです。神さまが燃え続けていてくださる、そこに私たち信仰者の希望はあるのです。そして、神さまご自身に希望を置いて生きる私たちを、神さまは用いてくださいます。
あなたの立っている場所は聖なる地である
神さまはモーセが立っていた場所を「聖なる地」と呼ばれました。「聖なる地」というのは、神さまの御前と言い換えても良いように思います。私たちが神さまの御前に生きているなら、そこは「聖なる地」なのです。家でも学校でも職場でも、神さまの御前にあるならば、私たちは聖なる地にいるのです。そして、私たちに求められているのは、どこにおいても神さまの御前にあることを覚えて生きることです。私たちは、どこにおいても神さまの御前にあることを覚えて、履き物を脱ぐのです。それは、神さまを神さまとして恐れ敬い、神さまの方を向いて生きることです。
モーセは日常生活の中で神さまから呼びかけられました。そして、モーセに語りかけられた神さまは、同じように普段の生活を生きる私たち一人ひとりに語りかけておられます。私たちは、家庭や地域社会で、学校や職場で、人と人との関係の中で、神さまからの語りかけを聞きながら生きるのです。
主の日の礼拝で説教を聞いていれば、それで十分だということではありません。反対に、日常生活において、神さまから語りかけを聞いていれば、主の日の礼拝に来なくても良いということでもありません。
中心は主の日の礼拝です。主の日の礼拝から新しい一週間がスタートします。私たちは、主の日の礼拝から日常生活に遣わされて、そこで神さまからの語りかけを聞きながら、神さまを中心として生きていくのです。
祈り
私たちは、失敗し、挫折し、燃え尽きます。しかし、私たちを愛していてくださる神さまは燃え尽きることのない方です。決して燃え尽きることのない神さまの熱心に支えられている恵みを覚えて感謝します。新しい一週間も、神さまの熱心に支えられて、神さまの方を向いて生きる私たちであらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

