詩篇の祈りに導かれて(15)(週報2024年12月22日号)

 旧約聖書の時代、礼拝のためにエルサレムの神殿に来た人々は、門前で神殿に入る資格が問われたと推測されています。外にいる礼拝者が問い、中にいる祭司が答えます。詩篇15編はそのやりとりの式文のようなものとも考えられています。

 ただ、詩篇15編において、礼拝者が問いかける相手は神さまです。人に対してではありません。礼拝者は神さまの前に立っているのです。そして、神さまの御前に立つ時、私たちはそのふさわしさを問わざるを得ないように思います。

 全き者として歩んでいるか、義を行っているか、心の中の真実を語っているか、神さまの御前において「自分は合格だ」と言える人は誰もいません。神さまの御前においては、誰も自分を義とすることができないのです。そして、驚くべきことに、神さまはそんなふさわしくない私たち一人ひとりを御前に招いていてくださいます。

 神殿の門前で中に入る資格が問われていたとすれば、それは礼拝者としてふさわしくない人を門前払いにするためではなかったと思います。礼拝に招いていてくださる神さまの恵みを覚えるためです。私たちは、ふさわしくない自分を愛していてくださり、礼拝に招いていてくださる神さまの恵みを、神さまの御前において味わうのです。そして、その神さまの恵みの中で、新しい歩みはスタートします。神さまを愛し、隣人を愛する歩みです。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)


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