主日礼拝説教:2024年12月15日(日)
聖書箇所:出エジプト記2章11~25節
説教題:みこころに留められて
暗唱聖句
主はあわれみを忘れずに、
そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
ルカの福音書1章54節
説教音声
説教要旨
罪からの救いのために
「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない」(1章22節)、そんなファラオの命令が下されていた時代です。イスラエルの民の家に一人の男の子が生まれました。男の子は、神さまの不思議な導きによって、ファラオの娘の息子として育ちました。男の子はモーセと名づけられます。
大人になったモーセは自分の同胞であるイスラエルの民のところに行きました。そして、同胞を苦しめているエジプト人を殺して砂の中に埋めました。また、イスラエルの民同士が争っているのを見て仲裁に入りました。モーセはエジプト人の支配の下であえぎ苦しむイスラエルの民を放っておけなかったのです。しかし、イスラエルの民からは受け入れてもらえませんでした。ファラオの怒りも買って、エジプトの地にいることのできなくなったモーセは、ミディアンの地に逃げていくしかありませんでした。モーセの挫折です。
モーセがイスラエルの民の救いに失敗したのは、十分な知恵も力もなかったからです。しかし、十分な知恵と力があったとしても、根本的な問題の解決はできなかったはずです。なぜなら、イスラエルの民が支配されていたのは、エジプトによってだけではなくて、より根本的には罪によってだからです。現在の私たちも同じです。エジプトの支配を受けて苦しむイスラエルの民も、現在の私たちも、同じように罪の支配の下に置かれているのです。
後に、救い主イエスさまは赤ちゃんとなってお生まれになってくださいました。自分で自分の面倒を見ることすらできない、何の力もない赤ちゃんです。神さまは御子イエスさまを罪人である私たちの手に委ねられたのです。そして、イエスさまは、最後までご自分を私たちの手に委ねて、十字架にかけられてくださいました。イエスさまは私たちの罪を背負ってくださったのです。私たちの罪が赦されるためには、イエスさまが十字架にかかってくださらなければならなかったのです。
救いとは、神さまから離れた罪人の私たちが、神さまの御前に帰ってくることです。神さまとともに生きることです。神さまから愛されていることを覚えて、神さまに支えられて、神さまに自分を委ねて生きることです。
神さまとともに生きることこそが、まことの救いです。イエスさまはその救いのために、お生まれになってくださったのです。
みこころに留めていてくださる
イスラエルの民は苛酷な労働によって泣き叫んでいました。彼らの叫びは神さまに届きました。そして、神さまは「彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ」(24節)ました。
「思い起こされた」といっても、神さまは忘れておられたのではありません。神さまはずっとみこころに留めておられました。だからこそ、モーセを備えていてくださいました。むしろ、イスラエルの民が泣き叫ぶ前から、彼らの嘆きが届く前から、神さまはみこころに留めていてくださったのです。そして、その神さまのみこころによって、イスラエルの民の救いは成し遂げられていくのです。
誰も自分のことを気に留めてくれない、そのように思えることがあるかも知れません。しかし、神さまはみこころに留めていてくださいます。
私たちは神さまを忘れてしまうことがあるかも知れません。しかし、神さまはみこころに留めていてくださいます。どんな時にも、みこころに留めていてくださいます。
イスラエルの民は、エジプトの地で暗闇の中に置かれていました。イエスさまがお生まれになったのも、真っ暗な夜でした。しかし、そこに、神さまは光を照らしてくださいます。どのような暗闇にも負けることのない光、暗闇が深ければ深いほどに輝く光を、照り輝かしてくださいます。
クリスマスの主人公であるイエスさまは、神さまがみこころに留めていてくださることの証しです。神さまがみこころに留めていてくださることを覚えながら、イエスさまのご降誕を待ち望みましょう。
祈り
どのような人間の力によっても、決して解決できない私たちの罪の深さを教えられます。そして、その罪を御子イエスさまが背負ってくださった恵みを覚えて感謝します。新しい一週間がスタートします。与えられた救いの恵みを喜びながら、イエスさまのご降誕を喜び待ち望む私たちであらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

