説教音声・要旨 2024年12月8日(日)

  • 主日礼拝説教:2024年12月08日(日)
  • 聖書箇所:コリント人への手紙第一1章10~17節
  • 説教題:ともに生きる道

●暗唱聖句

  どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。

コリント人への手紙第一1章10節b

説教音声

●説教要旨

◎分派を生み出す人間の罪

 手紙の本文が始まります。まず語られたのが、一致の勧め、あるいは教会内部の分裂の問題でした。一致してほしい、固く結び合ってほしい、とパウロはコリントの信徒たちに願います。
 信仰は個人的なものです。私と神さまとの関係の問題です。しかしそれは個人主義的なものではありません。私と神さまとの関係が健やかなものであるならば、おのずと、ともに信仰に歩む仲間たちと健やかな関係に生きるはずです。孤立するのではなく、教会の交わりの中に生きる。教会の交わりの中で励まされたり、教えられたりしながら平和の中に信仰生活は前進していきます。
 ところがその教会の交わりの中において問題が起こっていました。一致してほしい、堅く結び合ってほしい、と言われなければならない状態であった。争いがあった。
 「私はパウロにつく」。コリント教会の開拓期に奉仕したパウロに対して特別な思いを持った人たちがいました。「私はアポロに」。パウロの後任として奉仕したアポロは、雄弁で知識も豊富でした。特別な思い入れを持つ人たちがいたことも想像できます。「私はケファに」。ケファとはペテロのことです。パウロやアポロよりも、漁師の出身の素朴なペテロにあこがれる人もいたことでしょう。何よりもペテロはイエスさまの生き証人でした。さらに「私はキリストに」という人もいました。パウロ、アポロ、ペテロは人間です。ではキリストにつく、ということであれば問題がないような気もします。しかしパウロはこれも問題であると言いました。私こそキリストにつく者である、と語ることに問題が潜んでいるというのです。
 なぜこれらが問題なのか。このような言葉をもって、他の者と比較し自分こそ優れている、としたことが問題だったのだと思います。そのために、私はだれだれから洗礼を受けた、と語っていた。そうして教会に分裂を生み出していました。

◎力に満ちた十字架の威力に生きよう

 「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではない」。
 パウロは、洗礼などどうでもよいと言っているのではありません。救いにおいて洗礼はとても大切なものであると聖書は語っています(ローマ6章3節、使徒2章38節ほか)。しかし、もし洗礼を、自分のプライドを満足させるための道具として利用しているとすれば、それは洗礼の意味を失っていることなのです。福音に生きることがなければ洗礼は意味がありません。
 福音に生きる、とはどういうことであるのか。
 罪に生きていた時は、自分の価値を自分で証明しなければなりませんでした。どのような善行をしているか、徳を積み上げているか、経験をしているか、すぐれているか、実績があるかで自分の価値が決定される。しかしどんなに善に生きようとしても、善に生きるどころかかえって自分の足りなさを突き付けられる。善が為せたと思えば高慢になり、失敗したと思えば落ち込んでしまう。そんな人生であった。
 しかしイエスさまが私の罪を一切背負ってくださり十字架上で解決してくださった。罪びとでしかなかった私のために神さまがいのちをささげて下さった。私の罪は、神のいのちを持ってしか贖うことができないほどに深いものであった。しかし神はご自身のいのちを捨ててまで私を救いたいと願ってくださった。この主との出会いは、私の人生を180度変えました。もはや自分で自分の価値を証明することから解放されたのです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)と主は語ってくださった。その無限の愛を持って主は私とともにいて下さいます。
 この福音に生きるようにしていただいたにも関わらず、自分の価値を自分で証明しようとしている。そのために他の人たちを自分よりも劣っているとしている。それでは、キリストの十字架を空しくしているのだ。空っぽにしているのです。

「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。」

 福音は、ことばの知恵によらずに宣べ伝えられる。そうしてこそ十字架は空っぽにならない。十字架が力に溢れ、その威力が最大限に発揮される。そのために、ことばの知恵によらないで福音は宣べ伝えられなければならない。それはいわゆる知恵や知識は要らないと言っているのではない。ことばの知恵によらないということは、人間的な何かではなく、へりくだりの中に、謙遜の中に宣べ伝えられることです。そうしてこそ福音が福音として伝えられる。十字架の威力が最大限に発揮されることなのです。
 教会に争いがあること自体問題ではあるが、それ以上に、そのような問題を生み出すことになってしまっている、キリスト者の信仰のあり方自体が問題なのです。それでは、福音の喜びや恵みを見失っている。十字架が空っぽになってしまっている。せっかく救われたのに、なんというもったいないことをしているのか。

 主イエスさまの十字架には威力があるのです。ここに私たちは自分のプライドも、競争心も、自己憐憫も自己卑下も、すべてのものがはりつけにされたのです。罪びとであった私が、圧倒的な神さまの愛にとらわれてしまったのです。もはや自分で自分を装わなければならない一切のことから自由にされました。なんと感謝なことでしょう。この感謝に生きているならば、自由に他者を自分よりもすぐれているとすることもできるでしょう。十字架の威力に生かさているならば、あらゆることから自由にされるのです。

●祈り

 自分をすぐれているとしなければいられない束縛から自由にしてください。あなたの愛に満ちあふれた十字架の威力に生かしてください。

説教20241208-01
説教20241208-02


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