詩篇10編の詩人は「悪しき者」が栄える世界の現実を歌っています。「悪しき者」は神さまを侮っています。神さまから咎められることはない、そんな確信を持って、「悪しき者」は好き放題のことをしています。そして、「悪しき者」が栄える現実を見ながら、詩人は神さまに「なぜ」と問いかけます。神さまがいらっしゃるなら、「悪しき者」を放っておかれるはずがない、「悪しき者」が好き放題のことをしているのは、神さまがおられないからではないか、そんな疑いの声が聞こえてくるようです。
詩人は、「なぜ」と問いかけると同時に、救いを求めて祈ります。詩人は神さまが見ておられることを確信して祈り続けます。
私たちの目に良いと思える現実が、神さまのおられる証拠になるのではありません。反対に、「なぜ」と言いたくなるような現実が、神さまのおられない証拠になるのでもありません。
神さまはいつも見ていてくださいます。だからこそ、神さまは、私たちの救いのために、御子イエス・キリストの十字架の死と復活のみわざを成し遂げてくださいました。
救われても、苦しみや悩みを生み出す問題そのものはなくならないかも知れません。しかし、神さまはいつも私たちを見ていてくださいます。その神さまに見守られていることを覚えて歩む時、問題と向き合う私たちの姿勢は変わります。そこに救いの恵みがあるのです。
あなたは見ておられました。(詩篇10編14節)