説教音声・要旨 2024年11月10日(日)

  • 主日礼拝説教:2024年11月10日(日)
  • 聖書箇所:コリント人への手紙第一1章1~3節
  • 説教題:手紙によって語られる神の愛

暗唱聖句

主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

コリント人への手紙第一1章2節c

説教音声





説教要旨

「使徒として召された」~愛を語る備え~

パウロは手紙の最初にその発信人である自分を「神のみこころにより、キリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」と紹介します。また自分一人ではなく「兄弟ソステネから」と付け加えます。傍らにいて口述筆記をした人物かもしれません。使徒18章に登場する会堂司ソステネと同じ人物だったかもしれません。そこには教会の群れからの手紙である、という意味が込められているように思います。
 「使徒」とは遣わされた者、派遣された者という意味です。キリストによって召され遣わされた者であると自らを紹介します。これからこの手紙で書くことは、キリスト・イエスのことばであり神さまの御心なのだ、というのです。
 パウロは権威を振りかざしているのではありません。もしそうであったならば、語られる言葉が、相手に届くことはないでしょう。人間のことばではなく神さまからのことばなのだ、心して聞いてほしい、という願いはあったと思いますが、それ以上に、これから語ろうとしていることが、神さまの御旨の内に語られるために、自らを戒めているのだと思います。
 神さまのことばを人間が語る。畏れ多いことです。ですからこれから語る言葉が真実に神さまのことばとなるために、自分自身が神さまから遣わされたことを見失ってはいけない。自分自身を透明にして神さまご自身がお語りになられるように祈る。自分はただ神さまの道具であることをわきまえそれに徹するのです。
 使徒として本来ならばそれにふさわしい者でないかもしれない。しかし神さまが召してくださった。なんと喜ばしいことであろうか。この喜びなくして神さまの愛を語ることはできません。

「聖徒として召された」~神さまの御手の中にある~

次にパウロはこの手紙の受信者を明記します。「コリントにある神の教会へ」「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」。ここに「神の教会」また「聖なる者」「聖徒」と書かれています。コリントの教会はこののち読み進めていくと如何に「神の教会」「聖なる者」「聖徒」と呼ぶのにふさわしくないかが明らかにされていきます。しかしそのコリントの教会に向かってパウロは「神の教会」と呼び、「聖なる者」とされた、「聖徒」として召された、と呼びかけるのです。
 聖とは神さまのものとされたという意味です。人間的に見ればどんなにきよさに欠けたと見えても、教会は神さまのものです。その御手の中に置いていてくださいます。その教会に集う私たち一人ひとりも、どんなに欠けがあったとしても神さまの御手の中にあるのです。
 またパウロはコリントの教会を「いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに」召された教会であると語りかけました。さまざまな問題を抱えている。しかしそのあなたがたも世界にいるキリスト者とともにイエスさまを礼拝している民である、主にある仲間なのだと語ったのです。
 もし私たちが愛を語ろうとするならば、その語る相手が、神さまのものである、また同じ神さまを礼拝している仲間である、という思いが必要なのだと思います。どんなに正しいことを語ろうとしても、もし心の中で、彼らは神さまのものではない、私たちとは違う人たちなのだ、と思っているならば、そのことばは通じることがありません。これは信仰の問題です。神さまへの信仰がある、とすれば、この思いを持つことができるのです。
 「主は、そのすべての人の主である、私たちの主です」。私たちは同じ主を主としている。私たちはしもべ仲間である。ここにこれから語ろうとすることばが正しく伝えられていく土台があります。

愛のことばは恵みと平安を祈ることからはじまる

つづいてパウロは祈ります。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたにありますように」。愛の言葉は祈りから始まります。相手の上に「恵みと平安」があるようにとの祈りから始まるのです。
 これからパウロが語ろうとすることばには、コリント教会の罪を取り扱いますので、厳しいものも含まれていきます。しかしそれも「恵みと平安」を願ってのことである、と言います。
 恵みと平安を祈る心があってこそ、ことばは通じるのです。そうして教会を建て上げることができるのです。私たちが今語ろうとしていることは、相手の恵みと平安を祈ってのことであろうか。愛を語ろうとするとき自らの心を尋ねなければなりません。
 恵みと平安は、人間が編み出すものではありません。私たちの父なる神さまと主イエス・キリストから来るものです。そうであれば、それは祈りによって与えられるものです。最初に恵みと平安が祈られている。この祈りがまた土台となってこののちのことばが語られていきます。

祈り

同じ主を主とする信仰の仲間であることを見失うことなく、真実の愛の言葉を語る者として遣わしてください。


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