主日礼拝説教:2024年11月3日(日)
聖書箇所:テモテへの手紙第二4章6~8節
説教題:義の栄冠
暗唱聖句
あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。
テモテへの手紙第二4章8節
説教音声
説教要旨
信仰は守り通すもの
パウロは、「世を去る時」(6節)を迎えながら、「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(7節)と証ししています。
「信仰を守り通しました」と言われれば、傲慢に感じる人もいるように思います。謙遜なパウロらしくない言葉です。しかし、パウロははっきりと「信仰を守り通しました」と言いきっています。そして、その「信仰を守り通しました」というパウロの言葉が物語っているのは、信仰が自動的に守られるものではないことです。
「信仰」が「信念」であるならば、それはまさに守り通すものです。そして、「信念としての信仰」を守るのは、自分の力によってです。「信念」としての「信仰を守り通した」ということならば、そこでは「自分の信仰」が誇られているのかも知れません。
しかし、パウロの言う「信仰」は「信念」の意味を含みながら、それに以上に「信頼」に近いものです。「信仰」とは「信頼すること」です。そして、「信仰」が「信頼」であるならば、何よりも大切になるのは、「信仰」の対象が「信頼」できる方であることです。「信頼」できる方であるからこそ、信じて従っていくことができるのです。
信仰は守っていくものです。しかし、その信仰は、どのような試練や誘惑の中でも、とにかく固く守り通すような信念ではありません。そうではなくて、信頼することです。信仰の対象である救い主イエスさまを信頼することです。
私たちは不真実な者です。しかし、イエスさまは真実な方です。真実なイエスさまの愛は決して変わりません。イエスさまは弱くて不真実な私たちを愛し続けてくださいます。いつもともにいてくださいます。支え導いていてくださいます。そして、私たちはそのイエスさまを信頼するのです。信頼するからこそ、フラフラしながらも、自分をイエスさまに委ねて、イエスさまに従うのです。私たちが信仰を守るのは、イエスさまに守られていることが大前提です。
義の栄冠こそ
パウロは、犯罪者として捕らえられて、死刑判決を受けて、処刑されようとしています。そこに栄冠はありません。パウロは人生の最後に何らかの栄冠を受け取るのではありません。反対に、犯罪者の烙印を押されています。しかし、パウロは「義の栄冠」(8節)を見つめています。他のどのような栄冠でもありません。パウロは、義の栄冠をこそ、何よりも大切に考えてきたのです。
義の栄冠が授けられるのは、復活して天に昇られた主イエスさまが、もう一度来られる再臨の時です。義の栄冠が授けられるのは、復活という土台の上に成り立っています。
復活がなかったのであれば、そして、再臨がないのであれば、義の栄冠が授けられるというのは、希望でも何でもありません。そのような希望は失望に終わるだけです。復活がなかったのであり、再臨がないのであり、私たちの人生が死んで終わりなのであれば、ありもしない義の栄冠を夢見るよりも、この世の人生において何かを成し遂げることの方が大切です。しかし、復活はあったのです。十字架の上で死なれたイエスさまは復活されました。そして、再臨を約束してくださいました。義の栄冠を約束してくださいました。
パウロは、義の栄冠が授けられることについて、「主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださる」と言っています。性別も、年齢も、国籍も、社会的地位も、他のどのような事柄も関係ありません。主イエスさまの現れを慕い求めるすべての人に、義の栄冠は授けられるのです。
主イエスさまを慕い求めるのは、イエスさまを愛する人です。完璧な信仰生活を送ったという人ではありません。自分の罪を知っている人、欠けだらけの自分と向き合っている人、そして、その自分を愛していてくださるイエスさまを必要としている人です。イエスさまに愛されていることを覚えて、イエスさまに感謝する人です。
世の中には様々な栄冠があるかも知れません。しかし、本当の栄冠は主イエスさまが授けてくださる栄冠です。イエスさまの愛を受け取って、イエスさまを慕い求める人に与えられる義の栄冠です。義の栄冠こそが、私たちには必要なのです。
祈り
イエスさまの愛を受け取って、イエスさまとともに生きることこそが、私たちの救いであり、私たちに授けられる義の栄冠です。新しい一週間も、イエスさまから愛されていることを覚えて、イエスさまを慕い求める者であらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

