説教音声・要旨 2024年10月27日(日)

  • 主日礼拝説教:2024年10月27日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書28章1~20節
  • 説教題:神はともにおられる

暗唱聖句

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

マタイの福音書28章20節

説教音声

説教要旨

喜びに生きる

 主イエスさまは、十字架につけられ、死んで葬られ、その三日目に復活されました。死は滅ぼされました。もはや死は絶対的な存在でなくなりました。主にある者は、罪の一切が赦され、死からいのちへ移されました。永遠のいのちに生きる者とされました。
 復活の朝に地震が起こったと言います。それは主の使いが天から降りて来て石をわきに転がしその上に座ったからであると説明されています。誰の目にも明らかなように御使いは登場し、主の復活を告げました。墓にはおられない、主はよみがえられた、遺体が納められていた場所を見よ、と御使いが告げたのです。そして主の復活を他の弟子たちに急いで告げよと命じます。「イエスは死人の中からよみがえられました。そしてあなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお出会いできます」。
 御使いは確かに伝えたとマリアたちに念を押します。マリアたちは恐ろしくはあったけれども大いに喜んで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行きました。するとそこで主イエスさまがお出会いくださいました。「おはよう」。
 復活された主イエスさまはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる、そのガリラヤでイエスさまにお出会いできる、と御使いたちは語りました。しかしそのすぐ後でイエスさまがお出会いくださったのです。弟子たちに知らせようと走っていくマリアたちに出会ってくださったのです。ガリラヤでイエスさまにお会いできると聞いたマリアたちはさぞ驚いたことでしょう。御使いが念を押してまで語ったことと違った行動をイエスさまはとられたのです。御使いたちも驚いたかもしれません。
 イエスさまがマリアたちにかけて下さった言葉の「おはよう」は原文では「喜べ」という言葉です。恐ろしくはあったが大いに喜んでガリラヤへ急ぐマリアたちに、イエスさまは、喜びなさい、と語ってくださいました。ただ喜んでいればよい、と招いてくださったのです。
 主にお出会いし、自らの罪の一切が赦され、死からいのちに移された者は、ただ喜んで生きていればよいと主はお語りくださったのです。主を信じて生きる、ということは、喜びに生きることです。

神がともにおられる

 さて11人の弟子たちはガリラヤへ行きました。そこは、幾人かの弟子たちの故郷であり、イエスさまの公生涯の最初の伝道地です。彼らはイエスさまが指示された山に登りました。マタイの福音書で「山」は神さまの御言葉が語られる大切なところのようです(マタイ5章など)。そこでイエスさまは彼らに近づいて来て、宣教の命令を語られました。
 あらゆる国の人びとを弟子とせよ、と主は言われました。弟子とすることとは、三位一体の神の名において洗礼を授けること、キリストの命令を教えること、です。そしてあらためて弟子たちに言われます。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」。インマヌエル、神が私たちとともにおられる(マタイ2章23節)ではじまったマタイの福音書は、今再び同じ言葉で綴じられます。結局マタイの福音書が、そして聖書が私たちに語ろうとしていることは、この「神さまが私たちとともにいてくださる」という一点に尽きるのかもしれません。
 神さまがともにいてくださる。この言葉が語られた11人には「疑う者たちもいた」といいます。復活の主を目の当たりにしながらも、まだ信じることができない、疑いを抱いている。そういう弟子たちに主は語らました。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます、と。
 疑いを抱きつつも、しかし彼らは「イエスに会って礼拝」しました。復活の主に出会ったマリアたちが主に礼拝をささげた(9)ように、この弟子たちも主に礼拝をささげたのです。その彼らに主は語ってくださいました。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。
 信仰とは、自分がどれだけ深く確信を持つか、という人間のわざや人間の真実さではありません。疑いをも持つ自分自身を真実(信実)な神さまに委ねることです。疑いつつもなお信じる、神さまを礼拝する者は、その疑いの部分に神さまが触れて下さり、自分の限界を越えて神さまが働かれることに信頼します。疑うことなく信じることは大切なことかもしれません。しかし疑うからこそ、なお信じるというところに、もはや人間のわざではない神さまのみわざが期待されるのです。
 イエスさまは、弟子たちを、宣教へと招かれました。彼らの中に疑いがあるにも関わらず、その彼らに宣教に出発するようにと招かれたのです。主はご自身の働きにどのような人をお用いなさるのでしょう。一点の曇りもなく確信に満ちている人を用いるお方であるとともに、疑いをいただきつつもなお主に礼拝を献げる人を、またお用いになるのです。疑いを抱く自らの弱さ、あるいは正直さ、胸を打ちたたくしかない足りなさの中に、それでも主を仰ぎ見ようとする者を主はお用いになるのです。主はともにいてくださいます。

祈り

 死から復活された主イエスさま。死を滅ぼし永遠のいのちを与えて下さる主。あなたの御名を賛美します。私たちがなお疑いを抱く弱さの中にあったとしても、あなたはそのような私たちを決して小さく扱うことがありません。むしろ世の終わりまでともにいるとお声をかけて下さり、ご自身のみ言葉の宣教のために遣わしてくださいます。まことにもったいないお言葉であります。どうかあなたのその御愛に新しく心を開き、あなたにお仕えする者としてください。そして全世界においてあなたの福音が前進しますように、教会を用いてください。遣わしてください。

説教20241027-01
説教20241027-02


投稿日

カテゴリー:

, ,