説教音声・要旨 2024年9月22日(日)

主日礼拝説教:2024年09月22日(日)
聖書箇所:マタイの福音書27章45~56節
説教題:本当の神の子

暗唱聖句

この方は本当に神の子であった。

マタイの福音書27章54節b

説教音声

説教要旨

神に捨てられるキリスト

 神の子の死をいたむかのように闇が全地をおおっています。その暗闇が終わるとき、イエスさまは「再び大声で叫んで」霊を渡されました。この時の叫びの言葉は記されていませんが、その直前に大声で叫ばれたのは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」であったと聖書は記します。これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である、との解説も聖書にしるされています。詩篇22編からの言葉です。
 イエスさまは十字架上で、その死の直前に、どうして見捨てたのか、と父なる神さまに問われました。まるで、こんなはずではなかった、この十字架は失敗であった、とも想像したくなるような言葉です。
 十字架の苦しみは、肉体の苦しみとともに弟子たちに裏切られるという精神の苦しみがありました。前回学んだように、人間の神さまに対する侮辱、あなどりを受ける、という苦しみもありました。
 それらの苦しみに加えて、イエスさまのこの最後の大声の叫びは、神さまに見捨てられる、という苦しみ、すなわち霊的な苦しみを表しているのだと思います。イエスさまは霊的な苦しみをもここで経験してくださいました。
 イエスさまは、詩篇の祈りの言葉をご自身の祈りとして祈り、この霊的な苦しみを背負ってくださいました。

 聖書に当時の発音での言葉が記されつつ、その解説がされている言葉というのは「アーメン」「ハレルヤ」「マラナ・タ」などと同様に、福音書が書かれた当時の教会にて礼拝の言葉として使われていたことを想像させます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と礼拝の中で祈ったのです。
 私たちが、神さまに見捨てられたのではないか、との痛みや苦しみを経験するとき、そのような苦しみもイエスさまは十字架の上で経験してくださいました。どうして私を見捨てられたのか、との叫びが私たちのうちに起こるとき、この十字架のキリストは、私のもっともそば近くにおられます。
 ある人は、この苦しみの中でもイエスさまは二人称の祈りをささげられたのだ、と言われました。この祈りを私たちも祈りの言葉とするとき、どんな苦しみの中にあっても、神さまに向かって二人称で祈ることができるようにしてくださるのです。

本当の神の子

 イエスさまが息を引き取られたとき、いくつかのことが起こりました。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。復活の後に墓から出て来ることではありますが、このとき死者のからだが生き返りました。百人隊長や一緒にイエスさまを見張っていた者たちは「この方は本当に神の子であった」と言いました。またその一連の様子は、そこにいた大勢の女性たちによって見守られていました。

 神殿の幕は、聖所とさらに聖なる場所である至聖所との間を隔てるものでした(出エジプト26・33)。至聖所には大祭司が一年に一度だけ贖罪の日に入ることができたそうです(ヘブル9章)。その幕が裂けたことは、イエスさまの贖いの御業がすべての人に開かれたことを現しています。

「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル10・20)

 生き返った人たちが墓から出たのはイエスさまが復活された後であると書かれていますので、状況はやや複雑ですが、幕が開いて、死者が生き返ったのはこの十字架の時であったと聖書は語ります。神の子の十字架上での死は復活に結びついているのです。

 百人隊長、一緒にイエスさまを見張っていた人たちは傭兵のような人たちです。つまり異邦人でした。その異邦人が十字架のイエスさまを見上げて、「この方は本当に神の子であった」と語りました。十字架の御業は、ユダヤ人だけではなく、すべての人に救いの道をひらきました。

 この十字架の御業、十字架によって開かれた新しい救いの道。そのすべてを目撃することになったのは、女性たちでした。ヨハネによる福音書には、女性たちだけでなく弟子のヨハネもいたことを記していますが、マタイはそれを記しません。ただこの出来事を目撃したのは、女性たちだけであったかのように、弟子たちは誰一人そこにしるされていません。この女性たちの中には、まもなく主の復活の証人となる女性たちが含まれています。

 十字架の出来事を遠くからではありましたが、しかし必死になって見届けようとした大勢の女性たち。凄惨な十字架刑に、しかしそこに新しい救いの道がひらかれたことを彼女たちは目撃することになりました。当時女性たちには証言の能力がないとされていたそうです。しかし神さまは彼女たちをお選びになってご自身の福音を託されました。

「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」(第一コリント1・26,27)

 主の福音は「弱さ」に乗って世界に運ばれていきました。

祈り

 あなたは十字架において、私たちのすべての苦しみを担ってくださいました。まさに神に見捨てられる苦しみさえも背負ってくださいました。もはやあなたが背負うことのできない苦しみは何もありません。どんなに深い苦しみの中に落ち込むときも、そこにあなたがおられることを見失うことがないように信仰を与えて下さい。
 さまざまな弱さを用いてご自身の福音を宣べ伝えようとされたあなたの愛の御業を感謝します。

説教20240922-01
説教20240922-02


投稿日

カテゴリー:

, ,