- 主日礼拝説教:2024年09月08日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書27章27~44節
- 説教題:まことの王
暗唱聖句
彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
マタイの福音書27章35節
説教音声
説教要旨
強いられた十字架
ポンテオ・ピラトから死刑宣告を受けられたイエスさまは、総督官邸から十字架刑が行なわれる場所まで、十字架を背負って進まれました。しかし夜通しの裁判やむち打ちによってすでに体力の限界が来ていたのでしょう。兵士は官邸を出たところで出会ったクレネ人シモンに、イエスさまの十字架を無理やりに背負わせました。
クレネ人シモン。マルコの福音書には「アレクサンドロとルフォスの父」(マルコ15・21)と紹介されています。福音書が書かれたときに、このアレクサンドロとルフォスは、教会においてよく知られた人物、すなわちキリスト者であった。彼らの信仰は、彼らの父であるこのクレネ人シモンがここで「無理やりに十字架を背負わされた」ことがきっかけとなったのではないかと想像します。
クレネ人シモンは無理やりに十字架を背負わされました。その日十字架を背負うことなど想像もしていません。準備もなにもありません。いきなりです。もちろん好き好んで背負うはずもありません。いやおうなしに十字架を背負うことになったのです。しかしそれがシモンの、そしてその家族の信仰の始まり、祝福の始まりとなったとすればなんという神さまの御業でしょうか。
私たちもいろいろな十字架を背負います。背負わされます。できれば背負いたくないのです。背負いたいなどと言うことができるならば、もはやそれは十字架ではありません。強いられて背負わされるから十字架というのです。しかしそれが大きな祝福の始まりとなる。
クレネ人シモンは、イエスさまの十字架の重たさを、文字通り経験しました。「十字架を負ってわたしに従いなさい」(マルコ8・34)と主は招かれました。主の十字架を背負った人間が、信仰の道に進むことは自然なことなのではないかと思います。
あざけりを背負う神
総督ピラトの判決が下ると、総督の兵士たちは、主イエスさまを「総督官邸の中」に連れて行き、そこに全部隊を集めました。相当な数だと思います。そしてその閉鎖された空間で兵士たちがしたことは次の通りです。「着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた」「茨で冠を編んで、イエスの頭に置いた」「右手に葦の棒を持たせた」「『ユダヤ人の王様、万歳』といってからかった」「イエスに唾をかけた」「葦の棒を取り上げて頭をたたいた」「からかった」「マントを脱がせて元の衣を着せた」そうして「十字架につけるために連れ出した」。
からかい、あざけり、侮辱したのです。このようにしたのは兵士たちだけではありませんでした。イエスさまと一緒に十字架につけられた二人の強盗、通りすがりの人たち、祭司長たち、律法学者たち、長老たちも同様に主をあざけり、侮辱しました。旧約聖書・詩篇22編、69編、109編などの言葉がここに成就したと聖書は語ります。
十字架刑の残酷さは、肉体に与えられるむごさにあると思います。しかしここにはそのような苦しみはほとんど記されていません。まるで十字架の苦しみはこの「あざけり」に集中するかのように聖書は語ります。「苦みを混ぜたぶどう酒」は、鎮痛剤であると説明されることがあります。主がそれを飲もうとされなかったのは、肉体の痛みをまっすぐに受けようとされたことだと思います。しかしそれはまた同時にこの「あざけり」をもまっすぐに受け止めようとされたことなのだと思います。
私たちは、主の十字架が、私の罪のためであった、と信じています。そうであれば、そこで明らかにされた私の罪とは、あざけりの罪である、と言えるのだと思います。誰しも、誰かをあざける、侮辱しなければいられない、そんな心を持っているのではないか。そうであれば、この十字架の主に向かってあざける人の中に私もいるのです。
主はそのような私の罪を受け止め、その罪から解放してくださいます。救われるということは、そのような罪からの解放なのです。
まことの王
「今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう」。あざける人たちはそのように言いました。しかし仮に主が十字架から降りてこられたなら、果たして彼らは主を信じたのでしょうか。あるいは十字架から降りてこられた主を信じたとしても、それは聖書の語る「信じた」ことなのでしょうか。かつて主は悪魔の誘惑を受けられました(マタイ4章)。その時の悪魔の言葉と同じような言葉がここで人間から掛けられたのです。
主は、十字架から降りることをされません。人びとからのあざけりをひたすら受けてくださいました。ここに私たちの「まことの王」がいます。これこそ「まことの王」なのです。
私たちはあざけられることがあるでしょうか。そのような苦しみや悲しみを経験したことがあるでしょうか。主はそのような私たちに寄り添い、ともにいて下さいます。
主の宣教は父なる神さまからの「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3・17)との言葉によってはじまりました。私たちにもこの愛が注がれています。どんなにあざけられることがあっても、神さまからの愛は変わりません。その変わらない愛に支えられている私たちは、人間からのあざけりの言葉によって自分の価値を貶める必要はないのです。あざけりを一身に受けて下さったまことの王が主となって私とともにいてくださるのですから。
祈り
時折背負うことになる十字架の重たさに倒れそうになる私たちです。主の十字架を仰ぎ見、主がすべてを背負っていてくださることを思い起こさせてください。そしてそこに新しい祝福の道が始まることを信じさせてください。

