改めまして(44)(週報2024年9月1日号)

 神学校には「説教学」や「説教演習」のような授業があります。説教のための授業です。しかし、説教学や説教演習のような授業があれば、それで説教の学びが事足りるかわけではありません。

 説教において最も大切なことは内容です。どんなに巧みな語り方であっても、内容が神の言葉としてふさわしくなければ、それは説教とは言えないでしょう。

 カール・バルトという神学者は、説教について「教会において承認されている信仰告白という規範による以外は、語り得ない」と言っています。

 信仰告白と言えば、使徒信条がよく知られています。他にも様々な信仰告白がありますが、どれも教会の歴史の中でととのえられたものです。説教は教会が正統と認めてきた信仰告白の枠組みの中になければなりません。説教学や説教演習に限らず、神学校の授業で学んだことは、すべて説教者として語るべき内容につながるものでした。

 説教が教理的に正しくなければならないのは当たり前のことです。しかし、実際には決して当たり前のことではないように思います。そもそも信仰告白の言葉がととのえられなければならなかったことも、教会が間違った教えに揺さぶられてきた一つの証しです。

 継続的な学びを大切にしながら、神の言葉に仕える働きが健全な教会の形成のために用いられれば幸いです。

自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。(テモテへの手紙第一4章16節)


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