- 主日礼拝説教:2024年8月25日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書27章11~26節
- 説教題:引き渡される主
暗唱聖句
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。
屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。イザヤ書53章7節
説教音声
説教要旨
福音の驚き
ローマによる裁判が始まりました。イエスさまはポンテオ・ピラト総督の前に立たれます。
総督はユダヤ人たちからの訴えにもとづき、あなたはユダヤ人の王なのか、とイエスさまに問いました。祭司長たちや長老たちは、神さまを冒涜したということでイエスさまを訴えたのですが、ここでは、自らを王とした、ということでイエスさまを訴えます(ルカ23・2)。
イエスさまは、総督の問いに対して「あなたがそう言っています」と答えられました。あなたが語っていることであって私が語ってきたこととは違う。イエスさまは自分自身が、いわゆる政治的な意味で王であるとは言われませんでした。イエスさまが、ご自身をまことの王である、と言われるとき、それは政治的な意味ではなく、もっと大きな意味で王である、ということなのです。
その間も祭司長、律法学者、そして群衆はイエスさまを訴え続けています。彼らの証言はイエスさまにとって不利なものばかりでした。しかしイエスさまは何ひとつ答えようとされません。ただひたすら沈黙を守られたのです。この一切口を開かれないイエスさまの姿を見て、総督は非常に驚いた、と聖書は語ります。「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように」主は口を開かれません。この姿が、ときの権力者を驚かせました。不思議がらせたのです。
裁判に限らず自分に不利な証言が並べ立てられたならば、誰もが反論するのではないか。相手の言葉よりも多くの言葉をもって反論するのではないか。それがこの世に生きている者の常識なのだと思います。しかし私たちの主はひたすら沈黙を守られました。そうしてまっすぐに十字架に向かわれます。十字架の道に進む者を、この世は不思議に思います。しかし十字架こそ、罪の世界を変革するまことの愛の言葉であり神さまの力なのです。
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け
総督ピラトは、ねたみによって訴えが起こされていることを見抜いています。重ねて妻からは不思議なことが伝えられました。ここは何とかこの男を釈放するのが正しい道であると考えたのでしょう。祭りの慣習を利用してイエスさまを釈放する道をはかります。バラバという名の知れた囚人の名前を出して、イエスかバラバかどちらを釈放しようか、と群衆に問いかけました。しかし祭司長たちに説得された群衆は、バラバを釈放し、イエスを十字架につけるように要求します。その要求は激しい叫びとなりました(23)。もはや言葉は何の役にも立ちません。暴動を恐れたピラトは、群衆の目の前で手を洗い、自らの責任を放棄しました。「自分たちで始末せよ」。
こうしてピラトはイエスさまをむちで打ち、十字架につけるために引き渡しました。主は私たちの罪のために「引き渡されて」下さいました。
十字架につけよと叫んだのはユダヤの民衆全体(25)であり、そう画策したのは祭司長たち、律法学者たちでした。しかし使徒信条では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白します。これは、主の十字架が空想の物語ではなく歴史上の出来事であったっことを明らかにしているのだと思います。またさらに、イエスさまを十字架につけたのが、私たち一人ひとりであることを明らかにしているように思います。
ピラトは、イエスさまが無実であることを知っていました。何とか釈放する道を考えました。しかし結局ねたみに駆られた祭司長たちや、彼らに説得された群衆の顔色をうかがい責任を放棄したのです。ただ一人、十字架刑か否かを決定する力を持ちながら、その自らに与えられている力を正義のために使おうとしなかった。「良いサマリア人」(ルカ10章25節以降)のたとえ話で、道に倒れた人を見て見ぬふりをしたレビ人や祭司のように、道の向こう側を歩こうとした。いわゆる決定的な罪を犯したわけではありません。見て見ぬふりをした。それがピラトの罪なのだと思います。そうであるならば、この罪は、私たちの誰もが犯す罪ではないだろうか。
主はそのような私たちの誰もが犯す罪をここで一身に受けて下さったのだと思います。使徒信条を告白するごとに、まさに私の罪のために主は苦しんでくださったのだと私たちは知らされるのです。
祈り
自らの罪深さを知らず、また知ろうとしないかたくなな私の心を打ち砕いてください。主の十字架がどんなに苦しみに満ちたものであったのかを悟らせてください。私のすべての罪を背負ってくださった主の十字架であったことを教えてください。そうしてあなたの赦しの大きさ、恵みの深さを学ばせてください。

