改めまして(43)(週報2024年8月25日号)

 教会の営みの中心は主日礼拝です。その主日礼拝において、大きな位置を占めるのが説教です。神学生にとっても、説教者として整えられていくことは、とても大切なことでした。神学校では「説教学」や「説教演習」のような授業がありました。

 授業で説教の機会があると、その後に必ず互いの説教を評価し合います。率直に意見を言います。率直に言えなければ、あまり授業の意味がありません。率直に意見を言い合ってこそ、互いの学びになります。

 厳しい評価に傷つくことが何度もありました。しかし、その厳しい評価を受け入れていく必要がありました。それは謙遜でなければできないことでした。反対に、他の神学生が説教をしている時にも、求められていたのは謙遜さでした。私は、他の神学生の説教を聞きながら、「どう言ってやろうか」と考えてばかりで、自分が神様の言葉の前にあることを、すぐに忘れていました。説教をして、説教を聞いて、互いに評価し合う、それらはすべて謙遜を学ぶ機会でもありました。

 神学校を卒業して、教会に赴任すると、毎週説教をします。しかし、説教の機会が増えるのとは反対に、説教に対する客観的な評価を受ける機会は、意図的に作らなければ、なくなります。神学生の時代に与えられていた恵みに、改めて気づかされながら感謝するばかりです。

苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。 それにより 私はあなたのおきてを学びました。(詩篇119編71節)


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