説教音声・要旨 2024年8月11日(日)

  • 主日礼拝説教:2024年8月11日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書27章1~10節
  • 説教題:神さまによって

暗唱聖句

神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

詩篇51編17節

説教音声

説教要旨

総督ピラトに引き渡される主イエス

 ユダヤの最高法院において夜通しの裁判が行われ、祭司長たちはイエスさまを死刑と決めつけました。しかし死刑の権限がない彼らは、その権限を持っている総督ピラトに引き渡しました。総督とは、ローマからこの地方に派遣されている役人のことで、ユダヤにおける司法権を持っている人物です。すでに体力も限界に近付いているであろうイエスさまを彼らは縛って連れ出しました。暴れたり逃げ出したりすると考えたのでしょうか。疑心暗鬼は不必要な暴力を生み出します。イエスさまはこうして総督ピラトに引き渡されました。
 一方的な暴力によって引き渡される主イエスさま。私たちの神さまは全能のすべてを傾けて、無力の中に身を置かれます。

重荷は主のもとに下ろそう

 イエスさまが総督ピラトの官邸に移されていくその時、イエスさまを裏切ったイスカリオテのユダに変化が起こっていました。ユダはイエスさまが「死刑に定められた」のを知ると後悔したのです。どうして後悔したのか。イエスさまが死刑に定められたことは、ユダにとって予想に反したことだったのか。イエスさまを裏切ることによって、ユダが期待したこととはいったい何だったのか。
 イエスさまが逮捕されることによって、いわゆる神としての圧倒的な姿を明らかにしてくださると考えたのでしょうか。もしそうであれば、死刑に定められたことで、期待が外れたのですから、後悔などせずにただあきらめればよいことではないか。
 後悔をしたユダは、裏切りによって得た報酬の銀貨30枚を祭司長たちと長老たちに返しに行きました。このような銀貨を手にしているわけにはいかない、とのユダなりの正義をもって銀貨を返そうとしたのだと思います。銀貨を返せば、後悔の念は和らぐのでしょうか。犯した罪は帳消しになるのでしょうか。
 ユダは言いました。「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」。罪とは的外れという意味を持っています。ユダは、自らが主イエスさまを裏切ったことを、罪であった、的はずれなことであった、と祭司長たちに告白しました。
 しかし祭司長たちからは「われわれの知ったことか。自分で始末することだ」との言葉が返ってきました。「自分で始末する」。別訳では「お前の問題だ」。自分の問題である、自分が解決しなければならない、自分以外は解決することのできない問題だ。その言葉を聞いたユダは、銀貨を神殿に投げ込みその場を立ち去ります。そうして出て行って首をつり自ら命を絶ちました。
 イエスさまにはユダの自死を思いとどまらせる手立てがなかったのか。ペテロのように、また他の弟子たちのように、再び立ち上がる道が用意されていなかったか。
 最後の食事となる席で、イエスさまはイスカリオテのユダの裏切りを預言されました。そこでは不思議な対話がなされています。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」(26章23節)。「すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが『先生、まさか私ではないでしょう』と言った。イエスは彼に『いや、そうだ』と言われた」(同25節)。
 三度イエスさまを知らないといってしまうペテロに、イエスさまは再出発を導く言葉をかけておられました。ペテロはそのイエスさまの御言葉を思い出すことによって、新しく生きる道がひらかれました。それと同じように、イスカリオテのユダにも語っておられたのではないか。もし、後悔をしたユダが、すでに語られていたイエスさまの御言葉を思い起こすことができれば、すべてをご存じの上で十字架への道を進んで行かれるイエスさまを思いみることができたのではないか。ユダは後悔して、祭司長たちのところへ行きました。しかし本当に行くべきところは、イエスさまのところだったのではないか。イエスさまはペテロに願われたと同じように、ユダにも自らのところへ来るようにと招いてくださったのではないか。

 後悔のない人生はないと思います。しかし後悔をすべきところで、後悔ができる人ばかりではないと思います。後悔とは、原文で「心を変える」という意味を持っています。心を変える、ということは、人間のわざではなく神さまの御業です。後悔をしたユダ。そこに神さまの奇跡が起こっている。後悔をしたときに、どのような後悔をするのか。
 後悔をしたとき、祭司たちから返ってきた言葉のように、自分で始末しなければならないとすれば、だれも生きていくことはできません。しかしイエスさまのところに行くならば、そこにすべてをご存じの上でなお愛し続けてくださるお方に出会うことができる。そうして生きる道がひらかれるのです。後悔の中でなお自分の正義を守ろうと銀貨30枚を返すのではなく、後悔しなければならないような自分のすべてを神さまの御手の中にゆだねる。聖書は、それを悔い改めというのだと思います。

「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません」(詩篇51編17節)。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28~30節)

祈り

 父なる神さま。すべてのことをご存じの上で、なお十字架と復活の愛をもって愛してくださるあなたの愛を見失うことがないように守ってください。自らにではなく、あなたに望みを置くことができるように信仰を与えて下さい。後悔ではなく、まことの悔い改めを与えて下さい。あなたの愛のお言葉に支えられながら、与えられた道を誠実に歩む者としてください。

説教20240811-01
説教20240811-02


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