改めまして(41)(週報2024年8月11日号)

 いろいろ分かち合ってきましたが、神学校生活の中心はやはり日々の授業でしょう。奉仕教会での実習も、祈り会や伝道も、すべてが働き人になるための大切な訓練です。それでも、神学生が神学生として区別されるのは、やはり神学校での授業にあると思います。神学校での授業を通して、神学生は専門性を備えた働き人としての土台を固めます。

 ちなみに、関西聖書神学校では、伝統的に勉強はあまり重要視されてこなかったと言えるのかも知れません。「かつては、本を読んで勉強していると、先輩に本を没収されるため、隠れて勉強しなければならなかった」、などという冗談のような逸話を聞いたことがあります。それだけ祈りが強調されていたのでしょう。

 私が入学する頃はかなり雰囲気もかわっていました。ちゃんと勉強することも大切に考えられていました。それでも、他の神学校に比べると、勉強量は少ない方だったのかもしれません。もっとも、要領の悪い私にとっては、それで助かりました。授業以外にもあれやこれやと取り組みが多い中で、私は日々の授業についていくだけで精一杯でした。

 神学校での学びはわずかばかりのものです。しかし、授業で学んだことが、その後の学びや働きの土台となっていることを思うと、感謝しかありません。

この町のユダヤ人はテサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか毎日聖書を調べた。(使徒の働き17章11節)


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