説教音声・要旨 2024年7月28日(日)

  • 主日礼拝説教:2024年7月28日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書26章57~75節
  • 説教題:主のことばを思い出す

暗唱聖句

あなたは私の隠れ場 私の盾。私はあなたのみことばを待ち望みます。 詩篇119編114節

説教音声

説教要旨

大祭司にさばかれる主

 イエスさまを死刑にすることはすでに祭司長たちの中では決まっていました。この裁判は、死刑にするための裁判でした。そのために、丁寧に手順を踏んでいます。宗教的指導者によって死刑判決を出し、続いてローマ総督のもと十字架刑の判決を出してもらい、イエスさまを殺そうとしたのです。

 神さまを殺そうとするのに、宗教的にも政治的にも丁寧に、いわゆる正しい手順を踏んで進めようとしている。それが彼らのしたことでした。

 イエスさまは「神を冒涜した」として十字架刑に渡されます。確かに、64節の言葉はそう取られても仕方のない言葉かもしれません。しかし、彼らは「ねたみからイエスを引き渡した」(マタイ27・18)と聖書は語ります。ねたみとは、自分よりも優れていると感じる存在へのよこしまな心のことでしょう。自分のプライドを守ろうとするために、誰かを殺す、という行動自体、自らを神としていること、神を冒涜していることではないか。

 人間は、自らのプライド、自己価値を守るために、人を、そして神を殺してしまう。それも「正しさ」に包み込んで、ことを行おうとする。イエスさまは、そんな人間の罪のために、一人黙々と十字架の道を進まれます。

語られていた主のことばとの新しい出会い

 イエスさまが逮捕されると、弟子たちはみなイエスさまを見捨てて逃げてしまいました(56)。しかしここに複雑な一人の弟子ペテロがいます。たとえ他の弟子がイエスさまを裏切っても自分は決して裏切らないと言い(33)、たとえ死ぬことになったとしてもあなたを知らないなどとは言わないと言った(35)ペテロです。ペテロは、逮捕された「イエスさまの後について」(58)大祭司の中庭まで行きました。そして中に入って成り行きを見ようと、下役たちと一緒に座りました。69節には「ペテロは外の中庭に座っていた」とあります。中庭がどんな風になっていたのかわかりませんが、中に入ったり外に出たり、なにやら落ち着かないことです。

 そんな様子に、一人の召使の女性が近づいてきました。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」。ペテロは「皆の前で否定し」(70)ました。もうここにはとどまれないと思ったのでしょうか。入り口に移動すると、今度は別の召使の女性がまた問いかけました。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」。ペテロは「誓って」否定しました。「しばらくすると」。どうしていまだそこにとどまっているのか理解に苦しみます。案の定、立っていた人がペテロに近寄って来て言いました。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる」。ペテロは、呪いの言葉さえ口にしながら誓い始め、イエスさまを知らないと言いました。ペテロは三度イエスさまを知らないと言いました。「あなたもイエスと一緒にいた」「イエスの仲間だ」と言われた言葉を否定してしまったのです。

 私たちは、神さまが一緒にいてくださる、ということを喜びとします。私たちの生きる姿を見て、なるほど、あなたには神さまが一緒にいて下さいますね、といわれるならば喜びなのではないでしょうか。

 三年前のあの日、大勢の人に向かって福音を語るイエスさまを、漁師のペテロは舟に乗せることになりました。その語られるみ言葉を群衆の誰よりも身近で聞くことになりました(ルカ5章)。その直後に語られた「あなたは人間を捕るようになる」「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4・19)からはじまった冒険の日々。イエスさまの御姿が光り輝いたあの山上にも、命を失った会堂司の娘が生き返らされたあの部屋にも、ゲツセマネで悲痛な祈りをささげられたあの園にも、ともにいた、一緒にいたのです。なぜなら、一緒にいる、それが弟子として召された目的だからです(マルコ3・14)。一緒にいましたね、と問われた。ペテロはそれを否定したのです。弟子としてのあり方自体を否定した。あるいはイエスさまに召されて以来のすべての日々を、人生を否定したのです。自分の人生を否定して、これからどのように生きていけばよいのでしょう。

 「すると、すぐに鶏が鳴いた」。鶏が鳴くと同時に、ペテロの脳裏に奇跡が起こります。「『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われたイエスのことばを思い出した」。

 この言葉は、イエスさまが逮捕される前に、何があろうともあなたを裏切るなどということはないとペテロが言い切ったそのときに、イエスさまから語られたお言葉でした(34)。ルカの福音書には同じ時に語られた言葉として次のような言葉が書かれています。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

(ルカ22・31,32)

 イエスさまは、自分の信仰のなくなることを知っておられた。知っておられたうえで、祈ってくださった。そして再び立ち直ることを、そして兄弟たちを力づける者へと期待してくださった。失敗しない、間違いを犯さない、常に立派に歩むから向けられた愛ではない。どんなに失敗しようが、間違いを犯そうが、自分さえもあきらめてしまうような自分を、それでもイエスさまはあきらめることをなさらない。ここに神さまの愛がある。

 すでに語られていたイエスさまのお言葉との再会は、人間の想像をはるかに超える無限の愛との新しい出会いでした。ペテロは外に出て行って激しく涙しました。後悔の涙ではありません。自己憐憫の涙でもない。神さまの無限の愛との出会いが生み出した聖い喜びの涙なのだと思います。

祈り

 世の終わりまでともにいる、と語ってくださった主イエスさま。神さまがともにいてくださることを、自分の都合ばかりで捕らえようとしてしまう罪を赦してください。つねに御声をかけ続けていてくださるあなたに心を開かせてください。そうしてみ言葉に聞き、また従う者としてください。み言葉との出会いの中にこそ、自分らしく、自分の人生を大切にして生きる道が拓かれることを教えてください。

説教20240728-01
説教20240728-02


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