説教音声・要旨 2024年7月21日(日)

主日礼拝説教:2024年7月21日(日)

聖書箇所:テモテへの手紙第二1章15~18節

説教題:主のあわれみ

暗唱聖句

かの日には主が、ご自分のあわれみをオネシポロに示してくださいますように。

テモテへの手紙第二1章18節

説教音声

説教要旨

アジアにいる人たちはみな

 ずっとテモテのことを語ってきたパウロは、ここで他の人々に目を向けます。「アジアにいる人たち」です。アジアの教会に集まる人々は、パウロから離れて行きました。

 パウロは「アジアにいる人たちはみな」という言い方をしています。「アジアにいる人たちはみな」です。「みな」であれば、すべての人です。とは言っても、文字通りに、アジアの教会につながるすべての信仰者がパウロから離れて行ったのではないでしょう。それでも、「みな」と言いたくなるパウロの痛みや寂しさが、そこにはあったのだと思います。

 私たちは「みんな」と言うことがよくあります。「みんな持ってる」と言って、子どもたちは欲しいものを親にねだります。大人もまた、「みんなやってる」、「みんなそう言ってる」などと言いながら、自分を正当化したり安心させようとしたりします。そして、もしかしたら、パウロから離れて行った多くの人々も、私たちと似たり寄ったりのところがあったのではないか、そんな想像をします。パウロから離れて行った「みな」は、「みんなパウロから離れて行った」と言いながら、自分を安心させていたのではないか、そんなことを思うのです。

 パウロは主イエス様を愛しました。イエス様が一緒にいてくださる、その恵みの事実に支えられて歩みました。だからと言って、人の存在を軽んじたのではありません。むしろ、誰よりも人を大切にしました。イエス様を愛するからこそ、イエス様から愛されている一人一人を大切にしました。

 パウロから離れて行った「みな」に思いを巡らす時、私たちが教会に集まるというのは、奇跡以外の何ものでもないことを思います。神様が起こしてくださっている奇跡です。

 毎週の礼拝に集まることのできる恵みを感謝しながら、互いを大切にする教会であり続けたいと思います。

あわれみを示してくださいますように

 パウロはオネシポロという名前を上げました。「オネシポロの家族を主があわれんでくださるように」。「かの日には主が、ご自分のあわれみをオネシポロに示してくださいますように」。

 多くの人がパウロから離れて行ったのとは反対に、オネシポロはパウロの許に駆けつけました。わざわざパウロを捜して見つけ出したのです。それはイエス様を愛するがゆえの行動と言えるでしょう。

 しかし、周りの雰囲気と反対の行動を取ることは、簡単なことではなかったと想像できます。もしかしたら、パウロの味方であり続けることによって、オネシポロとその家族は苦しい状況に置かれていたと言えるのかも知れません。大きな苦しみに耐えかねて、主イエス・キリストの憐れみが分からなくなる、そんな状況があったかも知れません。

 憐れみとは、神様の本質に関わるご性質です。神様は決して私たちを諦める方ではありません。私たちが、神様に関心を持たなくなっても、神様を裏切っても、神様は私たちを愛し続けてくださいます。なぜなら、神様は憐れみ深い方だからです。神様は、憐れみ深い方として、変わることなく、私たちを支えていてくださるのです。憐れみとは、私たちに対する神様の変わることのない愛です。決して変わることのない愛、それが神様の憐れみです。憐れみは、神様と私たちとの関係の土台、私たちの救いの土台です。

 パウロは「主が、ご自分のあわれみをオネシポロに示してくださいますように」と言っています。「示す」と訳されているギリシア語の単語は、実は直前の17節でも使われています。「見つけ出す」と訳されている単語です。「主が、ご自分のあわれみをオネシポロに示してください」を直訳するならば、「主が、オネシポロに、ご自分からのあわれみを、見つけさせてください」くらいになるでしょう。主の憐れみはオネシポロが見つけ出すのです。そして、オネシポロが主の憐れみを見つけ出すことができるのは、主が先に憐れみを示していてくださるからです。

 弱い私たちは目の前の状況に左右されやすいものです。目の前の状況が悪ければ、イエス様の憐れみを見失ってしまうことがあります。イエス様の憐れみが分からなくなることがあります。オネシポロやテモテもそうだったことでしょう。しかし、イエス様の憐れみは決して変わりません。主イエス様は憐れみ深い方です。私たちに求められているのは、信仰の目をもって、その憐れみを見つめて受け取ることです。

祈り

 目の前の状況に翻弄されて、すぐに主イエス様の憐れみを見失ってしまうような私たちです。しかし、イエス様はいつも深い憐れみを私たちに示していてくださることを覚えて感謝します。どのような状況にあっても、イエス様の憐れみを見つめることができるように、私たちの信仰の目を開いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。


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