主日礼拝説教:2024年7月7日(日)
聖書箇所:テモテへの手紙第二1章6~14節
説教題:力と愛と慎みの霊
暗唱聖句
神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。
テモテへの手紙第二1章7節
説教音声
説教要旨
再び燃え立たせてください
パウロは「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」と、テモテに言っています。「神の賜物」とは、神様ご自身の霊、聖霊です。
「再び燃え立たせてください」という言い方は、火が消えかかっていることを示しています。それはテモテの状態そのものと言えるでしょう。しかし、その一方で、火が再び燃え上がるのは、火が消えていない証しでもあります。テモテは火が消えたような状態であっても、テモテのうちに宿っていた聖霊の賜物は消えてなくなっていたのではなかったのです。
火は、ほったらかしておけば、いずれ消えます。火が消えないためには、ちゃんと火を見ていなければなりません。火の状態を見て、その状態に応じて対応する必要があります。薪が必要であれば、薪を足します。風が必要なら、風を送ります。それは、火と私たちの対話、交わりと言っても良いように思います。火は私たちとの交わりの中で燃え上がるのです。
神様の賜物である聖霊の火は決して消えることがありません。そして、その聖霊の火を見つめ、聖霊の語りかけに耳を傾ける時、聖霊は私たちのうちで大きく燃え上がっています。私たちが薪を足して風を送って、火を大きくするのではありません。私たちが自分の気持ちを高ぶらせて、積極的に活動をして、聖霊が燃え上がるのではありません。反対に、じっと聖霊を見つめて、静かに聖霊の語りかけに聞き従っていく時に、私たちのうちに宿る聖霊は大きく燃え上がっているのです。そして、神様が私たちに望んでいてくださるのは、その聖霊との交わりそのものです。私たちが聖霊との交わりの中で生かされることです。
主の囚人
パウロは、「私が主の囚人であることを恥じてはいけません」と言っています。
パウロは牢獄の中でテモテに手紙を書いていました。使徒としてイエス様の福音を証しする働きのために、牢獄に捕らえられていました。囚人となっていました。パウロはそんな自分のことを「主の囚人」と表現しています。実際にはローマ帝国の囚人です。しかし、ローマ帝国の囚人ではない、主の囚人だと言っているのです。主イエス・キリストの囚人です。
テモテは、パウロがローマ帝国の囚人となったことによって、臆病になっていました。しかし、囚われたパウロその人は、主イエス・キリストの囚人以外の何者でもありませんでした。どこにいても、牢獄の中で鎖につながれていても、パウロは主イエス・キリストの囚人でした。パウロは、あくまでも、主の愛に捕らわれた囚人であり、主を愛する囚人だったのです。そして、そんな主の囚人として、パウロはテモテに聖霊という賜物を語るのです。なぜなら、パウロが主の囚人として生きるのは、聖霊によってだからです。
パウロは聖霊のことを三つの言葉で表現しています。「力と愛と慎み」です。
パウロは臆病になっているテモテに、まず聖霊の力を強調します。しかし、聖霊は力だけの方ではありません。慎みのある方です。慎みとは思慮分別であり、自制です。力がありながら、その力に振り回されることのない方、それが聖霊です。
そして、その力と慎みの間にある聖霊の性質が愛です。愛は真ん中で力と慎みをつないでいます。聖霊は何よりも愛なるお方です。主イエス・キリストの愛を教えてくださる方です。いつも私たちと一緒にいてくださり、私たちを愛していてくださる神様です。
聖霊という賜物は消えてなくなることがありません。私たちを愛して十字架にかかってくださった主イエス・キリストの霊は、決して私たちを諦めたりなさらないからです。聖霊はどんな時にも一緒にいてくださるのです。そして、私たちの目をイエス様の十字架の死と復活へと向けさせてくださいます。私たちは、聖霊によって、救い主イエス様を見つめ、神様の愛を受け取るのです。テモテに必要だったのは、与えられた聖霊によって、神様の愛を受け取り続けることでした。現在の私たちにとっても同じです。そして、聖霊によって、神様の愛を受け取り続けていくことが、主イエス・キリストの囚人として生きる歩みにつながるのです。
テモテはイエス様の愛を見失って臆病になりました。私たちも同じ弱さを抱えています。しかし、テモテに与えられた聖霊は私たちにも与えられています。そして、その聖霊によって、私たちはイエス様の愛を受け取り、委ねられた福音を福音とし守り伝えていくのです。
祈り
すぐに臆病になって、主イエス様を証しすることができなくなる私たちです。パウロやテモテに与えられた聖霊が私たちにも与えられていることを覚えながら、聖霊によって、イエス様の愛を受け取り、イエス様を証しする者であらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

