説教音声・要旨 2024年6月16日(日)

  • 主日礼拝説教:2024年06月16日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書26章26~35節
  • 説教題:先立つ神

説教音声

暗唱聖句

しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。

マタイの福音書26章32節

説教要旨

亀裂~皆がつまずいても私だけは

 十字架を前にしての最後の食事。そのなかでイエスさまは、パンとぶどう汁の入った杯とをとりわけ、「これはわたしのからだです」とお言葉を語られて、弟子たちに与えられました。「わたしの父の御国」において新しく食事をするまでは、もう共に食事をすることがない、との謎めいた言葉を語られたあと、一同は賛美の歌を歌い、オリーブ山へ出かけました。主はゲツセマネの祈り、そして逮捕、夜通しの裁判、そして十字架へと進んでいかれます。新しく食事をするのが「わたしの父の御国」ですから、天国のことを想像します。しかし十字架ののちに復活されたイエスさまは、弟子たちと食事を共にされますので、主の復活は天国を先取りしています。主がともにいてくださるならば、そこはすでに御国なのです。
 すでにイスカリオテのユダの裏切りを語られたイエスさまでしたが、このとき、あらためて弟子たち全員の裏切りを予見されます。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」。さらにそれは聖書がすでに預言していることである、と語られました。
 これを聞いた弟子たちには動揺が走ったことでしょう。弟子のひとりペテロがいいます。「たとえ皆があなたにつまずいたとしても、私は決してつまずきません」。力強い信仰の宣言ですが、この言葉が如何にあやふやな言葉であるのかは、まもなく明らかになります。ペテロはイエスさまを明確に裏切るのです。
 「たとえ皆があなたにつまずいたとしても、私は決してつまずきません」。いったいこれは信仰的な言葉なのでしょうか。ここにいる他の弟子たちがつまずいても私はつまずきません、私だけは裏切りません、大丈夫です、私は他の弟子たちとは違うのです、私だけは特別なのです、この連中と一緒にしないでください。もしこのような言葉であるならば、いったいそれは信仰的な言葉なのでしょうか。ある先生は、ここにすでに弟子たちの間に亀裂が入っている、といわれました。
 自分だけは特別である。こののち明確に主を裏切るペテロの言葉は、人間の罪の深さを明らかにしているように思います。自分を知らない、自分の本当の姿を知らない、知らず知らずのうちに隣人を区別し、低く見ている。自己中心の罪は、神さまよりも自分を中心とすることですが、それは本当の自分を知らないことであり、また隣人との関係を破壊してしまうことでもあるのです。

罪の赦しのために

 そのような弟子たちであることを主イエスさまはよくご存じでした。知ったうえで、ご自身のおからだをその弟子たちにお与えになります。「これはわたしのからだです」「これはわたしの契約の血です」。
 文字通り主は自らを「食べられるもの」としてお与えになります。食物は、それ自体、かみ砕かれ、すりつぶされ、飲み込まれ、消化され、消えてなくなり、食べる者の栄養、エネルギーとなります。主はそのように自らの身を失せることによって、弟子たちを生かそうとされました。主は、食べるものとなれることによって限りない愛を明らかにされました。
 主にお出会いし、主を信じ、主と仰ぐ私たちは、この聖なる食事を聖餐式として大切にし、繰り返し祝います。
 ここで主は聖餐の意味を「罪の赦しのために流される」「契約の血」であるといわれました。パンもぶどう汁も、それが主のからだであり血です。それを食するとき、私たちは、自らの罪の赦しを覚えます。聖餐は、この罪の赦し以上でも以下でもありません。
 パンとぶどう汁自体が実体的に変化し、それに何か霊的なご利益があって、それを食することによって病気が治るとか、健康になるといったことではありません。それは限りなく偶像礼拝的なことでしょう。また逆に、これを単に象徴的なこととして、パンとぶどう汁を、イエスさまのからだである、血であると「自分が思う」「自分が考える」ことによって、意味があるとすることでもありません。それは自分を中心とした単なる哲学です。
 私たちはご聖霊さまのお働きによって、へりくだってこれを主のからだと血であると「信じて」食します。聖餐式が成立するためにはどうしても「信仰」が必要なのです。信仰によって、この私のためにイエスさまがその身を裂いてくださった、血を流してくださったことを、おそれをもって受け入れ、身体全体をもって、私の罪は赦された、と知らされます。
 イエスさまは、私たちに罪の赦しを信じてほしいと願われ、聖餐式を制定されました。罪の赦しこそ人間にとってもっとも必要なことである、それ以外のものはまるで必要がないかのように、罪の赦しのために聖餐式を行うようにと弟子たちを、そして私たちを招かれました。
 こののち弟子たちは主のお言葉どおり主を裏切ります。弟子たちは自分たちが主を裏切った失意の中にあったとき、再び主と出会います。弟子たちは、自分たちが主を裏切ってしまうことをご存じの上で、罪の赦しを語ってくださったことを思い起こします。イエスさまは、立派に歩む私たちだから赦してくださったのではない、決して裏切ることがない私たちだからともにいようとして下さったのでもない。イエスさまは、私たちが罪びとであることを知ったうえで、赦してくださり、ともにいようとしてくださった。どんなに深い愛で愛していてくださったのか。彼らは再び立ち上がっていきます。
 聖餐式の式辞の中に、主は「親しく臨んでおられ」ますという言葉とともに、聖餐は、私たちが「主の愛のうちに一つであること」をあらわすものです、という言葉があります。聖餐は、主との交わりの食卓であるとともに、主にある者同士の交わりの時でもあります。自分だけは大丈夫と主張してしまう罪びとである私たちは、分裂するしかありません。しかし自らの罪を自覚しつつ、それを赦してくださった主との深い交わりは、互いに赦しあう道を開きます。そうして共に主の愛のうちに一つとされて新しく生きていくのです。

祈り

 信仰的な言葉を語りながらも、そこにどれだけ不信仰があり、また愛とは遠くはなれた言葉があるのか。主よ、この罪を赦してください。罪赦された罪びとであることを見失うことがないように、まことの謙遜を与えて下さい。罪を赦してくださる主が、とこしえまでもともにいてくださることを信じて、平安の道を歩ませてください。


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