- 主日礼拝説教:2024年06月02日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書26章14~25節
- 説教題:全能の神の愛
暗唱聖句
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。
ペテロの手紙第一2章24節a
説教音声
説教要旨
私に何をくれますか-私たちの罪とは
一人の女性がイエスさまに香油を注いだ「そのとき」、12人の弟子の一人であるイスカリオテのユダが、イエスさまを裏切り、祭司長たちに引き渡す計画を進めました。イエスさまへの愛の香りが漂う中に、弟子の一人がイエスさまを裏切るのです。
イスカリオテのユダがなぜイエスさまを裏切ることになったのか。ヨハネの福音書12章にあるマリヤによる香油注ぎでは、イスカリオテのユダが、それをもったいないことだと非難したことが記されています。香油注ぎを受け入れられたことがよほど気に入らなかったのか。弟子としてここまで従ってきたけれども、自分の思い描いた救い主とは違った姿をイエスさまに見るようになったからか。期待が外れたからか。
期待外れならば、ただ弟子を辞めればよいことです。しかしそうはせず、キリストを引き渡すことをしたのには、何かユダなりの思いがあったのかもしれません。追い詰めることによって救い主としての本領を発揮してくださるのではないか。期待通りの神の姿を明らかにしてくださるのではないか。そんな想像も許されるかもしれません。
さまざまな推測が可能だと思いますが、このときユダが祭司長たちに語った言葉は、「私に何をくれますか」でした。共同訳では「幾らくれますか」。結局、自分がいくら儲けるのか。どれだけ得をするのか、とユダは問うたと聖書は語ります。それが、人間が神さまを裏切る、引き渡す言葉でした。人間は、自分がいくら儲けることができるか、得をすることができるかで、神さまを裏切るのです。結局のところ、この、自分がどれだけ得をするのか、が最優先となっているところで私たちも神さまを裏切り引き渡す者となっているのではないかと思いました。
こうしてユダは、銀貨30枚(出エジプト21・32、ゼカリヤ11・12)でイエスさまを売り渡したのです。銀貨30枚は奴隷の値段であるといわれますが、不当に安い金額であるともいわれます。
わたしと一緒に-全能の神がともにいてくださる
種なしパンの祭りが目前に迫っていました。このお祭りは7日間に及ぶそうで、その最初の日に過越の食事を祝ったそうです。ユダヤ人である弟子たちにとっては大切な行事です。今年のお祭りはどうなるのだろうか、と心配していたことでしょう。どこに食卓を準備すればよいか、弟子たちはイエスさまに尋ねました。するとイエスさまは、都に入り、これこれの人のところに行って、『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』と言いなさい。」と言われました。弟子たちは命じられた通りイエスさまのおことばを伝えました。すると心配していたことが嘘のように、ちゃんと食卓が整えられたのです。この不思議な体験によって、イエスさまは何もかもご存じで、必要なことをちゃんと整えてくださるのだ、と弟子たちは喜んだことでしょう。
そのイエスさまの全能が明らかにされたような食卓において、イエスさまは自らの弟子の一人の裏切りによって十字架への道を進むと告げられました。弟子たちはたいそう悲しみ、まさか私ではないでしょう、と一人ひとりがイエスさまに言い始めました。
そこでイエスさまは、わたしと一緒に手を鉢に浸した者が裏切ります、と衝撃的な言葉を告げられました。さらにそのような者は生まれて来なければよかったのだ、と言われました。するとユダが「まさか私ではないでしょう」と言います。これに対してイエスさまは「いや、そうだ」とユダに言われました。なんとも不思議な対話です。
イエスさまと一緒に手を鉢に浸している者が誰であるのか。ビデオ判定でも行えば分かったかもしれませんが、この時、瞬時に分かるのは、手を浸している本人だけではないかと思います。イエスさまは、ユダに対して、あなたが裏切ることは知っている、とのメッセージを送られたのではないでしょうか。
わざわいだ、生まれてこなければよかったとは言われたのですが、本来生まれてこなければよかった人間など誰一人いません。生まれてきた、ということ自体が幸いなのです。しかしその幸いを、わざわいに変えてしまうようなことならば、一体その人生はどうなるのでしょうか。
あなたが裏切ることを知っている、とのイエスさまからのメッセージは、それでもなおその裏切りを受け止めようとしていることを伝えようとなさったのではないか。イエスさまはユダが裏切ることを十分に知っておられ、それでもユダの主であることをおやめにならない。裏切るユダに対して、イエスさまは裏切られるということにおいて、出会おうとなさっている。
神さまを信じるということは、神さまと出会うことであり、その出会いにおいて神さまの愛を知り、そして神さまを愛する者へと招かれていくことです。それがキリスト信仰です。いったい神さまは私たちのどのような姿と出会ってくださるのか。私たちはこの、裏切られる、というところにおいてお出会いくださる神さまと出会っているであろうか。
神さまは私たちが健やかに、また立派に歩んでいるところでお出会いくださるお方でもありますが、何よりも、私たちが罪を犯してしまう、神さまを裏切ってしまう、いったい幾ら得をするだろうか、ということばかりを考えてしまう私とお出会いくださるのです。
すべてのことをご存じの主イエスさまは、どんな事態の中にあっても私の主であることをおやめにならない、愛を注ぎ続けてくださるまことの神さまです。
祈り
自らがどれだけ得をするかばかりに終始する罪を赦してください。あなたを裏切る私であることを誰よりもご存じの上で、愛し続けてくださる主イエスさま。どうかあなたの愛に信頼する信仰を増し加えてください。たとえ自分さえもあきらめ、また見放してしまう自分であったとしても、あなたからの愛が変わることがないことを信じさせてください。生まれたことの喜び、生かされていることの喜びを見失うことがないように守ってください。