主日礼拝説教:2024年5月26日(日)
聖書箇所:テモテへの手紙第一6章11~16節
説教題:神の人よ
説教音声
暗唱聖句
しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。
テモテへの手紙第一6章11節
説教要旨
神の人よ
パウロはテモテに「神の人よ」(11)と呼びかけています。
旧約聖書には「神の人」と呼ばれる人々が出てきます。モーセ、サムエル、ダビデ、エリヤ、エリシャ…。ほとんどが神様に大きく用いられた人々です。旧約聖書に親しんできたテモテにとっては、偉大な先人たちだったことでしょう。テモテはその偉大な先人たちと同じ言葉で呼ばれたのです。
とは言っても、旧約聖書の「神の人」たちが「神の人」と呼ばれていたのは、彼らが立派だったからではありません。「神の人」という言葉によって意識されているのは、神様の選びです。「神の人」というのは、神様の一方的な選びによって、神様に用いられた人々です。テモテも同じです。パウロは、テモテもまた神様に選ばれた働き人であり、その神様の選びをテモテに思い起こさせるために、「神の人よ」と呼びかけているのです。
パウロはテモテへの手紙第二でも「神の人よ」という言葉を使っています。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです」(3章16~17節)。
私たちも聖書を受け取っています。私たちも、聖書を通して、教えと戒めと矯正と義の訓練を受けています。私たちもまた、「神の人」です。聖霊の働きによって、イエス様を信じて、イエス様に結ばれて、神様のものとされた私たちは、すべて「神の人」なのです。「神の人」とは、神様を心の王座にお迎えして、神様の言葉に養われて生きるすべての信仰者です。
すばらしい告白
パウロは、テモテが永遠の命のために召されながら、「多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました」(12)と言っています。
パウロは、テモテの「すばらしい告白」の内容を明らかにしていません。代わりに、テモテの告白をイエス様の告白と重ね合わせています。
パウロは「ポンティオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証しをされたキリスト・イエス」という言い方をしています。イエス様もポンティオ・ピラトに対して「すばらしい告白」をされました。そして、そのイエス様の告白と重ねさわせるようにして、テモテの告白を「すばらしい」と言っているのです。
テモテの告白が素晴らしいものであったとすれば、それは、主イエス・キリストに対する信仰が告白されたからでしょう。テモテの告白が素晴らしいものであったのは、他でもなく、テモテがイエス様を自分の主と信じ受け入れる告白をしたからに他なりません。イエス様が主と告白される、そこに信仰告白の素晴らしさはあるのです。もちろん、素晴らしいのは、信仰を告白する私たちではなくて、信仰告白の対象であるイエス様です。
パウロは手紙の最後に「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」と命じています。最後に改めてそう命じなければならなかったのは、テモテの困難な状況を物語っているように思います。テモテは多くの深刻な問題に直面しながら苦しんでいたのです。挫折しそうになっていたのかも知れません。そして、そんなテモテに、パウロはテモテ自身の告白を思い起こさせています。パウロは、信仰の対象である主イエス様へと、テモテの目を向けさせようとしているのです。テモテは、自分の信仰告白を思い起こしながら、ポンティオ・ピラトの前で「すばらしい告白」をされたイエス様を見つめる必要があったのです。
信仰を告白する私たちはあくまでも人間です。信仰告白によって、どんなに大層な決意を表明したとしても、私たちが弱い者であることは変わりません。試練や誘惑によって倒れる可能性はいくらでもあるのです。しかし、どんなに簡単でも、イエス様こそが主と告白されているならば、それは素晴らしいものです。なぜなら、イエス様を主と信じ受け入れる私たちは、イエス様ご自身によって支えられているからです。私たちは、信仰告白を通して、イエス様を心の王座にお迎えして、イエス様の愛に支えられて生きるのです。
祈り
罪人の私たちを「神の人」と呼んでくださる神様の愛を感謝します。私たちが「神の人」と呼ばれるために、神様が成し遂げてくださった救いの御業を見つめながら、イエス・キリストを主と告白する日々を生きることができますように。新しい一週間の歩みを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

