説教音声・要旨 2024年5月5日(日)

  • 主日礼拝説教:2024年05月05日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書26章1~13
  • 説教題:神に向かう心

説教音声

暗証聖句

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

マタイの福音書26章13節

説教要旨

シモンの家を宿とされた神

 「すべてを語り終えられた」イエスさまは、いよいよ十字架の道に進んで行かれます。二日たつと過越の祭りになる、その時に、十字架につけられるために引き渡される、と弟子たちに言われました。引き渡されるという言葉は、敵に売り渡す、裏切られる、とも訳される言葉です。
 一方、祭司長や民の長老たちは、大祭司カヤパの邸宅に集まり、イエスさまを逮捕し殺してしまおうと計略を練っていました。彼らは、民の間に騒ぎが起こると自分たちの立場が危うくなるので、祭りの間はやめておこう、と話し合っていました。祭り、すなわち過越の祭りから種入れないパンの祭りと続く約1週間はやめておこうと考えたのです。
 果たして十字架の出来事はイエスさまの言われたとおり二日後に起こります。十字架は、人間の罪の計略によって起こったように見えて、実は、神さまの完全なご支配の中に進んでいったと聖書は語ります。
 まもなく十字架にかかられるイエスさまは、この時、ベタニヤのシモンの家におられました。ベタニヤはエルサレム南東3キロほどのところにある村です。ここにはマルタ、マリア、ラザロたちの家もありました。イエスさまはこの村から毎日エルサレムに通われ、そうして十字架への道を進んでいかれました。
 シモンは「ツァラアトに冒された人」と紹介しています。ともに食事をすることができるのですから、おそらくこの時はすでに癒されていたのだと思います。しかし癒されてもなおこのように呼ばれるところに、この病の残酷さがあります。一度かかれば生涯付きまとうのです。しかしイエスさまはそのようなシモンの家を宿とされました。イエスさまはいつも最も虐げられている人びととともにいて下さいます。
 そのようなイエスさまのお姿は、一人の女性をその食卓へと導きました。

神に向かう心

 やってきた女性は、非常に高価な香油を持参しました。そしてそれを食卓に着いておられたイエスさまの頭に注ぎかけました。小さな壺(別訳では石膏の壺)ではありますが、あたりにはむせるような香りが充満したことでしょう。異常な状況となりました。
 これを見た弟子たちは憤慨しました。このような香油であれば高く売れて、その売上金で多くの貧しい人たちへの施しができたのに、何のためにこんな無駄遣いをしたのか、と女性を責めました。
 女性は返す言葉を知りません。しかしイエスさまが答えてくださいました。なぜこの人を困らせるのだ、この人は「わたしに良いこと」をしてくれたのだ。イエスさまは弟子たちが無駄遣いだと責めた女性の行動を、良いこと、と言ってくださいました。
 イエスさまは重ねて言われました。貧しい人たちに施しをしたいのであれば、貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるのではないか。施しをしようと思えばいつでもできるのではないか。なぜそうしないのだ。罪びとである私たちは、他人の財産の良い使い道を考えてあげることが得意です。しかしいざ自分のものとなると、その良い使い道ではない使い道をするのではないでしょうか。
 さらにイエスさまは言われました。わたしはいつも一緒にいるわけではない、この女性は、この時とばかりに、そしてこの時でなければできない、私のための良いことをしてくれたのだ。この人がしたことは、実は、わたしの埋葬の準備をしてくれたのだ。この人のしたこの良いことは、やがて福音が宣べ伝えられるところでも、この人の記念として語られるであろう。
 弟子たちはやがて伝道者として福音を宣べ伝えることになります。その時にこの女性の良いことも宣べ伝えられる、そこでは、同時にこれを無駄遣いだといった自分たちのことも語ることになります。どのような気持ちで語ったのだろうか。恥ずかしい気持ちを持ちながらも、喜びながら語ったのではないだろうか。救われた者は、いつでも自由な気持ちで自分の失敗を、恥ずかしい気持ちを持ちながらも、喜びながら語ることができるのだと思います。こんな私が救われたのです、と。

 人間の目には無駄遣いとしか見えない香油注ぎ。しかし女性はひたすらイエスさまへの愛にあふれて、香油を注いただのだと思います。そうせざるを得ないような愛を、かつてイエスさまからいただいた、この香油では到底足りないほどの愛をイエスさまからいただいたのだと思います。決して無駄遣いをしなさいということではありません。しかし真実の愛は、人間の目には無駄遣いと見えることのなかに現れるのかもしれません。
 牧師ポール・ティリッヒは「十字架は最も完全であり、最も聖なる無駄遣いです」と、マルコの福音書の並行記事の説教の中で語りました。イエスさまの十字架こそ、最も聖なる無駄遣いである、と。
 コリント人への手紙の中に次のような言葉があります。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」(第一コリント1章18節)。

 十字架における神さまの犠牲は、私のためであった。私という存在は神が犠牲を払うほどに尊いものなのだろうか。この世の基準からすればまったくの無駄遣いなのではないか。しかし私たちの神さまは、そうまでして私を救いたいとお考え下さった。この十字架こそ、救われる私たちにとって、まさに神さまの力なのです。私たちはこの神さまの真実の愛に生かされています。

祈り

 十字架を前にしてなされた一人の女性の愛の行動を思いめぐらせました。そのようなあふれるばかりの愛で私たちを愛していてくださる神さま。どうか私たちもあなたの愛を学ばせてください。愛に生きる者と造り変えてください。

説教20240505-01
説教20240505-02

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