改めまして(24)(週報2024年4月14日号)

改めまして(24)

 結婚前に戻した話の続きです。東近江の教会に導かれた私は、宣教師の先生と伝道に出かけたり、ヤング(中高生)のスタッフに加えられたりするようになっていました。そして、そんな中で、「献身」という言葉が、私の耳に入ってくるようになりました。献身、身を献げる、牧師のようなフルタイムの働き人になる道です。献身という言葉を聞いて、私はドキッとしました。

 話はさらに韓国時代にまで遡ります。実は、韓国にいた頃にも私は献身を考えたことがあるのです。韓国で神学大学院に行く手続きを進めたりもしていました。しかし、その時は道が開かれませんでした。神様の御心よりも、自分の思いが先走っていただけなのかも知れません。

 後に、私は、(本欄で何度か書いていた)宣教団体(ISF)の奉仕を、無責任に投げ出すようなことをしてしまいました。奉仕者として、失格でした。そして、「神学校になんか、入れていなくて、本当に良かった」と思っていました。

 そんな後ろめたい過去がある私の耳に、「献身」という言葉が飛び込んでくるようになってきたのです。私は、献身なんてありえない、牧師なんて絶対にできない、と思いました。しかし、どこか後ろめたさを感じてもいました。そして、本当に神様が自分を働き人として召されているのなら、その時は従わなければならない、と思いました。

「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」(エレミヤ書1章6節)


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