説教音声・要旨 2024年3月3日(日)

説教音声

説教要旨

  • 主日礼拝説教:2024年03月03日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書25章1~13節
  • 説教題:賢い生き方

●暗証聖句

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。

テサロニケ人への手紙第一5章10節

●説教要旨

◎備えの油、恵みの油を絶やさない

「賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。」(4)

 主イエスさまは十字架と復活、昇天ののち、自らが再臨することを弟子たちに語られました。主にある者は、主が再び来られることを待ち望んでいます。ただし、その日、その時がいつなのかは、父なる神さま以外だれも知りません。知らないということが、常に備えるという生き方を私たちのうちに生み出します。
 25章に入って、重ねて念を押すように「その日、その時を、あなたがたは知らない」と主は語られました。そのために一つのたとえ話をされました。
 ともしびを持って花婿を迎えに出る10人の娘たち。そのうちの5人は、ともしびと共に油を備えています。しかし他の5人は、ともしびは持っているけれども、備えの油は持っていませんでした。
 いざ花婿が来たときに、間が悪く娘たちの油が切れてしまいます。油を備えていた娘たちのともしびは、花婿を迎えるために輝き続けています。しかし油を備えていない娘たちのともしびは消えそうです。彼女たちは油を備えていた娘たちに分けてくれるように願います。しかし分けてもらえません。油を買いに行っている間に花婿が到着してしまいました。宴会場の扉は閉じられました。油を切らした娘たちは婚礼の宴に入ることが出来ませんでした。

 主の再臨を待ち望みながら常に備えている信仰生活とは、「備えの油を切らさない生活」、常に「ともしびを輝かせ続ける生活」を送ることです。
 備えの油とは何か。輝かせ続けるともしびとは何か。古来、聖霊の火、祈りの火、愛の火、希望の火など様々に読まれてきたようです。ともしびがなんであるのかをイエスさまは解説されませんでしたので、いろいろな読み方をすることは可能だと思います。特定せずにそのときの自分の信仰生活を振り返るためにそれぞれで当てはめれ見るとよいと思います。

「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。」(5)

 「目を覚ましていなさい」と主は言われました。しかしこのたとえ話では10人の娘は10人ともみなに眠ってしまいました。賢い娘たちも眠ってしまったのです。目を覚まし続けていたのではありません。眠ってしまった、目を覚ましていることが出来なかった、けれども「賢い」と言われました。それは、備えの油を絶やさなかったからです。聖霊の火も消え、祈りの火も、愛の火、希望の火も消えたかに見えても、彼女たちに消えることのなかったもの。たとえ眠ってしまっても、消えなかった火、絶やさなかった油。それは神さまの恵みの火であり、神さまの恵みの油です。
 どんなときにも、神さまの恵みはなくなることがない。その恵みに私たちは生かされています。

◎分けることのできない恵みの油

「しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。」(9,10)

 花婿が来たとの知らせが届いたとき、備えの油がなかった娘たちは、油を備えていた賢い娘たちに、分けてくれるように頼みました。しかし賢い娘たちは答えました。「いいえ、分けてあげるにはとても足りません」。なんとも冷たい言葉です。間もなく花婿が来るのだから、少しぐらい分けてあげればよいようなものです。
 油を買いに走った娘たち。油を手にして帰ってきた彼女たちの前で、祝宴の扉は閉じました。娘たちが入れてくれるように懇願するのですが、主人は答えます。「まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません」。非情な言葉が告げられました。
 油を備えていなかった娘たちに対して語られる冷たい言葉、閉ざされる扉、拒絶。

 聖書は、私たちをいたずらに恐怖させようとしているのではありません。備えの油は、ひとり分であって誰かに分けてあげることが出来ないのです。再臨への備えは、誰かに代わりにやってもらうことが出来ないのです。自分の人生には、自分が責任を持たなければならない。自分のいのちを、誰かが代わりに生きてくれることはない。もし誰かに代わりに生きてもらうとすれば、それはもはや自分の人生ではなくなってしまう。
 どんなに近い関係にあっても、その人の人生は、その人だけが生きる人生です。健やか人間関係の中で、健やかに生きるためには、自分の人生に責任を持つとともに、共に生きる人がまた自分の人生に責任をもって生きることが出来るようにしてあげることです。
 私たちがやがて迎える死も、誰かが代わりに迎えてくれることはありません。死はたった一人で迎えて行かなければならない、担って行かなければなりません。
 備えの日々を生きる私たちは、今どのように備えていくのか。信仰の決断。恵みの火、恵みの油を絶やさない。それは私がしなければならないこと、私以外は誰もできないことなのです。今この時、この私が備えなければならないことなのです。

●祈り

 信仰の備えをなさせてください。何よりもあなたの恵みを見失うことのないように守ってください。私たちは、みなあなたの前に一人立っています。どうか自分の人生を生きることが出来るように良い信仰の備えを与えて下さい。

説教要旨(画像ファイル)

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