改めまして(12)(週報2024年1月21日号)

改めまして(12)

 ちょっと話が戻りますが、勉強のペースがつかめてくると、私は自分を教会に導いた宣教団体ISF(International Student Fellowship)の働きにスタッフとして携わるようになりました。私はとても熱心でした。それは、イエス様の福音を分かち合いあいという思いでいっぱいだったからです。

 しかし、熱心になる一方で、私はとても批判的になっていきました。自分たちの働きを見直しながら、「もっとこうしよう、ああしよう」と意見を出し、活動が思うように進まないと、不満を募らせてばかりでした。心の余裕がなくなって、スタッフの誰かが集会に遅れて来たりすると、すぐに注意することもありました。「イエス様の愛を知っているのに、何でそんなにいいかげんなことができるのか」という思いだったのです。しかし、愛が分かっていなかったのは私の方でした。

 私は自分の不十分さを棚に上げて仲間を批判していました。批判することも正しい行いのつもりでした。そして、神様はそんな私にゆっくりと教えてくださいました。それは、私こそが不十分な罪人だということでした。批判されてしかるべきであるにもかかわらず、深い愛によって赦されていたのは私の方だったのです。私は、イエス様が十字架にかかられた意味を、改めて教えられたのでした。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5章8節)


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