改めまして(11)(週報2024年1月14日号)

改めまして(11)

 経済的に苦しい生活を送りながら、いつも大きな問題となったのは献金でした。本当にわずかな額ですが、収入の機会があると、私はその十分の一をいつもきっちりと献金していました。収入は、自分のものではなくて、与えてくださった神様のものであることを覚えて、神様に感謝してお返ししたいと思っていました。

 しかし、十分の一を献金する私の心の中は、感謝ではなくて、葛藤で満たされていました。なぜなら、わずかな額の献金は、私にとっては貴重な生活費だったからです。私は、献金するお金があるならば、わずかでも手元に残しておきたいという思いでいっぱいでした。私にとって、十分の一は、収入の一部ではなくて、今日明日の生活に直結するものだったのです。献金は自分の命を献げることに他なりませんでした。

 その日その日の生活もままならない状況で、無理に献金をする必要はなかったのかも知れません。しかし、いずれにしろ、神様はそんな私の命を支えてくださいました。いつも私が献げる以上のものを与えてくださいました。そして、そこには、かけがえのないご自分の御子を献げてくださった神様の愛が込められていることを、私は教えられてきました。私は、私が献げる前から、ご自分を献げてくださった方の愛によって支えられていたのでした。

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネの福音書6章51節)


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