改めまして(6)(週報2023年12月10日号)

改めまして(6)

 先週の本欄で、韓国で信仰をいただいた頃に韓国の近現代文学を学んでいたことを書きましたが、韓国の学生たちと韓国の文学を一緒に学ぶというのは、本当に大変なことでした。韓国の学生たちの何倍もの時間をかけて作品や論文を読み、レポートや発表の原稿を書きました。寝る時間を削り、寝て食べる時間以外を「読み書き」に時間を割くという感じです。まさに時間との戦いでした。

 そんな状況の中で毎週日曜日の礼拝に行くことは、とても大変なことでした。「礼拝に行く時間があったら、…」ということです。しかし、私は礼拝に行き続けました。礼拝を「守る」ということではありませんでした。礼拝が待ち遠しくてたまらなかったのです。とにかく神様のことが知りたい、神様の御心に生きたいという思いでした。そして、同じ信仰をいただいた仲間たちとの交わりが大きな励ましにもなっていました。

 振り返ると、「とても純粋だったなぁ」と思います。しかし、その後の信仰生活を辿っていくと、「純粋さはどこに行ってしまったのか」と思ったりしてしまいます。あるいは、最初から純粋でも何でもなかったと言った方がいいのかも知れません。しかし、そんな不純な私がここまで信仰生活を続けることができたのは、まさに神様の一方的な愛の恵みとしか言うことができません。神様は不純な私のすべてを知りながら、私を受け入れてきてくださったということです。

「わたしはあなたの行いを知っている」(ヨハネの黙示録3章1節)


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