改めまして(3)
私が韓国で教会に導かれたきっかけは、ISF(International Christian Fellowship)という団体の行事に参加したことでした。ISFは韓国に来た外国人留学生たちに友だちとして仕える団体でした。韓国に渡って間もない頃、私はISFの行事で韓国人の学生たちと知り合うことができました。ISFのメンバーであるその学生たちはクリスチャンでした。クリスチャンとの出会いと交わりは人生で初めてのことでした。
そんなクリスチャンたちとの交わりの中で、印象的だった言葉あります。「日曜日に礼拝に行かなければ、一週間ずっと力が出ない」。それは義務として礼拝を守るという響きの言葉ではありませんでした。礼拝に行って御利益に与るという響きの言葉でもありませんでした。礼拝を通して生きる力を受け取っていることを感じさせられる言葉でした。神様に支えられて生きていることを感じさせられる言葉でした。
神様には私たちの礼拝が必要ないかも知れません。私たちが礼拝しなくても、神様は神様です。しかし、私たちには神様を礼拝することが必要です。礼拝を通して、造り主であり救い主である神様の愛を受け取り、神様との正しい関係に立ち返ることが、私たちの人生には必要です。神様は、その私たちの必要を知っていてくださり、私たちを愛していてくださいます。だからこそ、私たちを礼拝に招いていてくださいます。
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネの福音書6章35節)