主日礼拝説教 2023年10月29日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年10月29日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書23章1~12節
  • 説教題:ただ一人の師キリスト

●説教音声

●暗唱聖句

隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

マタイの福音書 6章4節

●説教要旨

◎人からの栄誉を求めない

イエスさまは、律法学者やパリサイ人たちを非難されました。それを、群衆と弟子たち、両方に向かってお話しされました。13節以降を見ると、そこには律法学者やパリサイ人たちもいたようです。彼らはモーセの権威をもって語っているので、彼らの言うことは実行し守れ、しかしその行いをまねてはいけない、とイエスさまは言われます。
「言うだけで実行しない」(3)。他者には聖書を立派に教えるけれども、自分たちは一切実行しなかった、ということではありません。彼らは率先して実行していました。聖書の通りに実行していたのです。しかし彼らのその言動は、人びとの肩に重荷を載せるだけで、その重荷の痛みや苦しみへの思いやりがありませんでした。また彼らが実行することは「すべて人に見せるため」でした。それで、実行していない、と言われたのです。
聖書の言葉に生きようとしてそれができないことの痛みや苦しみが人間にはあるのです。その痛みや苦しみへの共感の欠如、と、人に見せるための生き方、とは深いところでつながっています。人間の弱さへの共感が失われると、立派な生き方は人に見せるためだけのものとなる。逆に、信仰的な生き方が人に見せるためだけのものとなると、ともに生きる者の苦しみに共感することができない。いわゆる聖書的な生き方がそこにあったとしても、結局、聖書を実行していることではないのです。

人に見せるためというのは、人からの栄誉を求める生き方です。聖句を入れる小箱を大きくしたり(出エジプト13・1~、申命記6・4~)、衣の房を長くしたり(民数記15・38~)するのです。宴会や会堂では上座、上席を好みます。広場であいさつされること、人びとから先生と呼ばれることを好むようになること。それは人からの栄光を求めようとする生き方です。栄光が確認できると幸せになり、そうでないと不幸になる。これは不自由な生き方なのではないでしょうか。

◎ただ一人の師キリスト

イエスさまは、弟子たちに向かって、先生と呼ばれてはいけない、教師(師)と呼ばれてはいけないと言われます。群衆に向かっては、弟子たちに対して父と呼んではいけない、と言われました。この「先生」という言葉は直訳では「ラビ」という言葉で、今日の日本語の「先生」とは別の意味を持っているようです。「父」は肉親の父ということではなく、信仰の父という意味です。教師は、学校の先生という意味ではなく、導師、というような意味です。
のちに弟子たちは、使徒と呼ばれるようになりますが、実際には先生や教師(エペソ4・11ほか)、父と呼ばれるようになります(第一コリント4・14~)。今日では神父さん、とか牧師さんといいますから、そこには父とか師といった言葉が入っています。教会は、単純に呼称の問題と受け止めたのではなかったようです。問題の焦点は、「人からの栄誉を求める生き方」が生まれてしまうこと、「人に見せるための信仰」が生まれてしまうこと、そして互いに弱さを持った人間であることが忘れられてしまい、重荷を負いあいながら共に生きる道が閉ざされてしまうことなのだと思います。

私たちの信仰の父は、天のお父さまだけです。どのように立派な方がおられても一人の罪人である、罪赦された罪びとであることを忘れてはなりません。また私たちを導いてくださるお方、まことの「師」はイエスさまだけです。イエスさまを師とし、イエスさまを囲んで、私たちは互いに仕えあう兄弟姉妹なのです。牧師も、互いに兄弟姉妹であることを忘れて、自らが何ものかになったかのようなことでは、人びとに御言葉を語ることは出来ません。導くこともできないのです。

大樹は、それが大きければ大きいほど、その何倍も深く広く根を張っています。その大樹の枝は、鳥が巣をつくろうとする安心感に満ちています。根を張らずにいたずらに高さを求めるならば不安定となりいつか倒れてしまいます。逆に低く、へりくだって生きる者は、神さまによって高められるのです。主にある者の偉大さは、人びとに仕えることによって明らかにされます。
虚栄から、人からの栄光を求める罪から自由にされましょう。主にのみ仕える喜びと自由を確かにしましょう。

「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」
(ピリピ2・1~9)

●祈り

父なる神さま。人からの栄光を求めてしまう罪から解放してください。主にのみ仕える喜びを確かにしてください。まことの自由に生きることが出来るように助けてください。


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